2011年10月8日土曜日

Think Different



有史以来、もっとも歴史的な果実はリンゴだった。かも知れない。
蛇にそそのかされてリンゴを食べて以来、われわれ人類は、楽園を追放され、さまざまな苦悩にさいなまれることになった。
もっとも自然な生まれたままの姿であるにも関わらず浅田奈美のような奔放な裸体は、日の当たる日常生活の表舞台からは抹殺され、日陰ではエロ雑誌に掲載されて100万人のオナペットとなる運命だったのだ。
しかも、ここでも国家権力とアートのボーダーで核心部分を握っていたのは、ほかでもない歴史的果実であるリンゴだったのだ。
そしてリンゴの落下を見たニュートンは万有引力を思いつき、リバプールに出現したリンゴ・スターとその一味はクラシカルな既存の音楽を破壊した。
こうして運命のリンゴはいろいろなものを破壊すると同時に、時代ごとに、さまざまなものを作り出す。
リンゴをひと齧りしたために、裸はご法度になったものの、インドを旅した一人のリンゴ好きの青年の存在によって人類は革新的なコンピュータを手にすることになるのだ。
その名もアップルコンピュータ。
ジーンズを履いたリンゴ好きな青年は、あるときHPで働く生真面目な天才スティーブ・ウォズニアックと出会い、それまで個人とはかけ離れた存在だったコンピュータを身近なものへと変革した。
それまで公共の建物と一体化した構造物であったコンピュータを机の上における家電製品に仕立て上げた。その名もマッキントッシュ、それはリンゴの品種名であった。
そして、このリンゴは、立ち枯れしそうな危機も乗り越え、世界を巻き込みながら既存の文化を再発明していったのだった。
リンゴの持つ力を信じて人類に示唆を与え続け、自らは何も作らずにすべてを作ってしまった神、それがスティーブ・ジョブスであったというのは言いすぎであろうか。
現世ではiGodだった彼にも、いよいよ本当の神の世界へと旅立つときが来たようだ。否、禅の好きだった彼のことだ。スピーチの予見どおりにやってきた最期の時を迎え、神様から仏様になったというべきかも知れない。
若い肉体も、そして卓越した才能も人は必ず死によって最期のときを迎える。すべてを知っているリンゴは、これから何を破壊し、何を生み出すのだろうか。



2011年9月26日月曜日

沖縄の夏、設楽りさ子の夏




むかし、むかし遠く沖縄には南西航空という航空会社がありました。
本土復帰も今はむかし、平成の世にあっては、あからさまにJALの傘下として鶴丸をつけ、日本トランスオーシャン航空に改名、JTAの略称で呼ばれておりますが、かつて、その独特なオレンジ色主体の機体塗装は、南国沖縄を飛ぶ翼に相応しいトロピカルな仕様でございました。
B737のオーバーヘッドビンに手の届かない小柄なCAが、専用ツール”孫の手”を使って、頭上の収納を開けていた、おぼろげな記憶がございますが、あれは幻だったのでしょうか。
そして、特筆すべきことに、この機内誌のコーラルウェイが、ございました。
親会社のJALの面白くもおかしくもない機内誌を尻目に、青い空、白い砂浜に椰子の葉・・・エキゾチックな魅力を放っておりました。
日本復帰はしたものの、まだ、いたるところに米軍統治時代のかの地独特の風情を漂わせ、珊瑚でできたまっ白い砂浜にはビキニのお姉さまたち飛び跳ね、マリンレジャーを楽しむイメージが、たくさん登場していました。国内では天国に一番近い島、そうした刷り込みがなされた瞬間でありました。
この表紙などは、なんと、もとキング・カズの奥様だった、設楽りさ子嬢であります。
海からあげた網には、持ち上げられないほどの獲物が・・・カタもなかなかのアカジンミーバイでしょうか。
遊びで捕る魚にしては値段も高いお魚たちで、ニコニコ写真撮ってないで、鮮度の高いうちに市場へ・・・というお馬鹿な心配までしてしまいそうですが、ナイスバディな設楽嬢が、水着で漁業をしている構図はまことに新鮮で、海草を持って写った松坂慶子嬢を彷彿する衝撃映像でございます。
このコーラルウェイ、当時は、搭乗客へのサービスとして自由に持ち帰れたため、南西航空の利用者の部屋には大体、コーラルウェイが揃っていたものであります。
今では有料になり、紫外線に肌を焼かない当世の世相から露出度の高いビキニのお姉さまはすっかり姿を潜め、男性諸氏にとってはやや物足りなさを感じないわけではありませんが、鶴丸復帰で、JAL化する社内でも、異彩を放ち地域の話題を扱う貴重な資料として、今日でもCORALWAYは続いております。オニヒトデに食われることなく、今後も死守していただきたい機内誌でございます。




2011年9月13日火曜日

怖いものみたさ・・・



だ~れもいない海 二人の愛を確かめたくって~~♪と可憐に17才をうたっていた南沙織も調べてみれば1554年7月2日生まれ。なんと、57歳ということになる。
篠山さんの奥さんになってから、芸能界からは引退、その後の彼女を見てないので、僕のイメージの中では、17才の時の彼女のままだ。埋められない40年の歳月がそこにはある。
でもこの人、芸能界に居たときから自分の世界をしっかり持った人という印象であったから、あまり変わらないのじゃないかと思う。
どことなく女優で言うと、冒険者に出ていたジョアナ・シムカスのような雰囲気があるのだ。それは、それで誰だか分からぬ世代にとっては、ちっとも説明にもならないと思うのですが・・・
もう沖縄と聞いて、南沙織とかフィンガーファイブを思い浮かべる世代は、みんなお爺、お婆になっているという冷厳な事実。
知らぬが花かもしれないが、思い出として変わらぬ可憐なイメージを残している南沙織の居る一方で、かなり変貌した姿を見てしまった同時代の天地真理。彼女も今年で還暦になるなんぞと聞くと、そんなにみんな歳を経たのかと、自分も思わず鏡で確かめてしまうのだ。確かに埋められない40年の歳月がそこにはある。
高齢化社会とは言え、還暦アイドル大集合は怖い企画で、究極の衝撃映像とならないことを祈るばかりである。

2011年8月28日日曜日

ピーター・ノースの物量作戦




刑事コロンボがピーター・フォークだということを知っている人は多いが、ピーター・ノースで、”むふふ”と思わずニヤついてしまうのはエッチな男たちだけなのではないのだろうか。
いくらインターネットの時代とは言え、彼の名前が一般的だったら怖い気がする。
ピーター・ノース自身は平成の時代に入っても、さしたる衰えを見せずに活躍しているAV男優らしいけれど、昭和の時代に彼の裏ビデオを見た人は、日米の圧倒的格差を知って愕然としたものだった。
こんな人種と戦争しても勝てるわけがない、と。
しかし、AV男優である彼の最大の武器は巨根ではない。
貪欲な米ポルノ女優を悶絶させる立派なそれも、日本人にとって十分に脅威ではあるのだが、真のすごさは精液の量である。
日本人のそれが三八式歩兵銃だとしたらM16などではない、彼のは、まさに20mmバルカン砲の威力に匹敵する。
圧倒的な射程、発射量そして連続発射能力は、馬並みというに相応しかった。
太平洋戦争においてもかの国の圧倒的な物量は精神力で戦う日本軍を南方の島々から駆逐していったが、工業製品の量であれば資源や国土の広さからして説明もできよう。
しかし、なぜ同じ人類と交尾をするピーター・ノースがこれほどの精液量を放出できるのだろうか。
思わずフェイクでは?本物なら別の生物に分類すべきでは?と勝手なことを思ってしまうのだが、不幸にしてフェイクでも人類以外の生物でもないらしい。
もっとも業界では”世界で一番、精液を浪費する男”との称号を得ていると聞いて、ピーター・ノースが米国男子を代表するわけでもないのを知り、ちょっとホッとしたりもするが、相手の女優の顔を飛び越え精液が白線になって連続射出される光景は、圧巻でピーターフォークとはまた異なる才能として、人類の遺産ではないだろうか。
果たして演習に惜しげもなく発射される彼の実弾が種族反映につながった例が何件あったのだろう。
なぜ、ピーター・ノースを思い出したかというと、最近、”ピーター・ノースの祝福”という本があることを知り、よほどマニアックな本なのかと思ったがきっかけだった。
中身はけして彼の自伝ではないようだが、いろいろな話題のトリガーとして、著者の渡辺やよいは書名に彼の名を使ったのではないだろうか。
ブックカバーはピーターノースのそれなのだろうか?満ち足りた女性の寝顔の向こうに、キノコが並ぶおもわせぶりなものである。
これでピーター・ノース談義が女性の間にも広がることを畏れつつも期待したいものである。



2011年6月29日水曜日

中山律子

 



昭和の時代、家族のスポーツだった、ボーリング。
流行っていた当時は、日曜日など2時間待ちなど当たり前という状況だった。
空いている時間帯を狙って早朝ボーリングなども流行ったこともある。
そして日曜にはボーリング番組のテレビ放映もあり、美しきチャレンジャーなる新藤恵美の主演するスポ根ものの、ドラマまであった。
そして、あの当時、女子ボウラーとして活躍していたのが中山律子だった。
彼女は須田開代子や並木恵美子らといったルックスそこそこの実力派とともに、実力と美形を兼ね備えた稀有の存在として、もてはやされ、他のボウラーがレーンでしか脚光を浴びないのに対しシャンプーのCMなどにも起用されていた。
当時は、先輩の須田などにはいじめられてだであろう美形の律子さんは、女の世界でお姉さまにいじめられるかわいそうなシンデレラという位置づけだったと思うが、最初にパーフェクトゲームを達成するなど、美人であるだけではなく、ボウリング界を牽引するスタープレーヤーだった。
今ではボーリングというとかなりマイナーなスポーツで、マイボールやマイシューズで現れて、隣のレーンでストライクにハイタッチなどする賑やかな若者には、わき目も振らず淡々とフォームのチェックなどをしながら、黙々と投げているボウラーは、ネクラという印象以外持たないかも知れないが、一時期、ボウリングは国民的スポーツとしてメジャーな位置づけだったのである。
 
 
 

2011年6月25日土曜日

刑事コロンボ


ビバリーヒルズの自宅でピーター・フォークが亡くなったそうだ。
日本人にとってピーター・フォークと言えば、すなわちロサンゼルス警察のコロンボ警部というくらい、彼を印象付けたテレビドラマが刑事コロンボであった。
そして、この番組も昭和の時代の懐かしいテレビ番組だったと言って良い。
最初のシリーズは1972年から1979年の間に、放送されていたと記録にあるから、確かに、あの甲高いテーマ曲で始まる刑事コロンボは、一時期、毎週、楽しみにしていた記憶がある。
ヨレヨレのコートを来て、葉巻を片手に、ボロ車に乗り殺人現場に登場する、ピーター・フォーク演じる刑事コロンボは、それまでの刑事のイメージとは、かなりかけ離れていた。
颯爽とスーツを着て、急ブレーキ音とともに、パトカーや覆面者で現場に駆けつける石原軍団とは異なり、風采の上がらぬ殺人事件の現場には場違いな人、それがロサンゼルス警察殺人課コロンボ警部のいでたちであった。
しかし、ひとたび捜査に入るや、彼のこうした冴えない風体は、実は鋭いツメを隠すための隠れ蓑であることを知るのだ。
視聴者は番組のしょっぱなから、あらかじめ犯行の一部始終を見せられているから、彼の推理は実に的を射た見事なものに映り、この冴えない風采の男が、ステータスもあり経済的に成功している犯人に対して質問責めにして追い込んで行く様は、まさにフェラーリも庭にプールも持たない日本の視聴者にとっては精神的なカタルシスでもあったのではないか。
ノラリクラリのコロンボの質問にも最初の頃は、余裕で対応していた犯人も、やがては追い詰められ、態度を荒げて行くという筋書きは毎回、変わることはない。
こうした画一的なストーリー展開にも関わらず、毎週、見たいと思ってしまう魅力が刑事コロンボにはあったのである。
やっつける相手は悪代官とセレブという違いこそあれ、きっと刑事コロンボはアメリカ版の水戸黄門なのではなかったのだろうか。
多くのアメリカ人はどう見ていたのか、定かでないが、小池朝雄の吹き替えも見事で、うちのカミさんがね・・・という口癖や、聞き込み捜査の帰りがけに、1つ忘れてました~と戻ってくる、犯人にとって、いらだつシチューエーションをうまく演じて当時、これをパクったコントも多かった。
また、あの独特な刑事のやぶにらみは、片目が義眼だったというピーター・フォークのキャラがぴたりとはまっていた適役といえるだろう。コロンボ警部以外には映画グレートレースに出ていたことくらいしか、私は知らない。だから彼はピーター・フォークでなくてコロンボ警部でいい。そう思う。
 



 

2011年6月11日土曜日

ベレG

 
 
いすずという会社はダンプやエルフなどのディーゼルエンジンを得意としたトラック専門のメーカーにも思えるのだが、かつて乗用車も作っていた。最終生産の乗用車であるFFジェミニなどは1987年までだからほとんど昭和の終わりごろまでは生産していた。
そして本来のトラックを作る実用的な設計哲学は、乗用車においても独特なクルマづくりを行っていた。
商売もなんかちょっと変な会社という印象で売れなかったベレルの焼き直しかというフローリアンをジウジャーロデザインの117クーペと一緒に発表し、117のセダン版みたいな位置づけだったような記憶がある。
本当に必要な車を考えたらこうなったという技術者の真摯な姿勢は高く買うのだが、117クーペに羨望のまなざしを向けても、家は家族4人だからフローリアンを買うなどという家庭はおそらくなかったはずである。
そしてベレットもまた他に似た車を探しても見当たらない独特なスタイルをしていた。
どこかずんぐりむっくりでグラマンや雷電の雰囲気をもっていた。
そして写真のベレットGTは4ドアセダンをベースに2ドア仕様のスポーツタイプに仕上げたものだと思うのだが、当時、運転免許もなかった自分にとっては、見てあこがれるだけの存在だった。
スタイルだけではなく横置きのリーフスプリングを使うなど、おそらく走りも独特だったはずなのだが運転できる年頃には、すでにベレットGTは世の中でも希少車になっていた。
このボンネットを黒に染めた塗装も当時、レースカーなどで太陽反射による防幻対策としてよく使われており、カッコ良かったのである。スカGは知ってても、ベレGは、もはやあまり知る人の少ないマニアックなクルマだと思う。
 
 

モンローのビキニ姿

 

昭和のグラビアアイドルといえば、アグネスラムが思い浮かぶかれど、海の向こうではどうなのだろう。
男性誌プレーボーイやペントハウスのグラビアを飾っている彼女たちに、はたして元祖のような存在があるのだろうか?
ふと、おもいついたのはマリリン・モンローだった。
私の知っている限られた選択肢から思いつくくらいであるから、当然、世界的にも有名な方に違いない。
でも、単純に考えても、かなりアグネスラムとは時代が違う人だ。
アグネスラムが1970年代なのに対して、1950年代から表舞台に登場され、お亡くなりになる1962年まで。今のようなメディアのない世界で短命にも関わらず名を馳せている彼女にはジェームス・ディーンのように並外れたものがあるに違いない。
そして、あちらにはグラビアアイドルという呼び名があるのかどうかも知らないが、彼女の場合、ピンナップガールと呼んだほうがふさわしいように感じる。
男の視線を意識したポーズをとった彼女のピンナップがアメリカ人の独身男性の部屋にペタペタ張られていただろうことは容易に想像がつくし、どれほど夜のお供に供されていたのかは知らないが昭和のアグネスラムに近かったのではないかと思うのである。
しかし、1950年代のアメリカは、まだかなり保守的であったのだろう、写真で残っている彼女のビキニ姿は少ない。
その数少ないピンナップを見てみると、懐かしい雰囲気を醸している。西暦しかないお国なのにどこか昭和的なのである。
顔こそ白人で、アグネスのようには日本人にすんなり取り込めないが、今から比べるとふっくらしていてずっと馴染みやすい健康的な肢体だ。
現在の、かの国のセックスシンボルと比べると、マシンで鍛え上げられたマッスルは感じられず、ずいぶんほのぼのとした女性らしい体形だ。
飽食の時代になるとスレンダーで拒食症のような偶像を求める傾向が強い。アメリカもまだどこかで飢えていた時代なのかも知れない。
 
 

2011年6月10日金曜日

アグネスラムとカルマンギア

 

アグネスラムの魅力は、ハワイ出身というエキゾチックな生い立ちはありながら、日本人にとっては白人のように抵抗感のないオリエンタルな顔立ちと、大きく丸みをもったたわわなオッパイ。
そして小さいビキニに包まれた、これまた大きく丸みを帯びたヒップにつながってゆく、くびれた曲線であったことは容易に理解される。
昭和の時代、体形であっても性格であっても、女性に求められたものは、こうした適度な丸みだったのではないだろうかと思う。
そして、もうひとつ流行において丸くなったり、直線的に角ばったりしているものにクルマのデザインがある。
戦後、ビートル、ルノー、ヒルマンといった丸い外車が入ってきて、これらに範を得た初期の国産車である、てんとう虫や310のブルーバード、観音開きのクラウンなど、みな二次曲面をもつ丸い姿をしていた。
しかし、その後ブルーバード510のスーパーソニックラインに代表されるように、丸みを帯びた原始の時代から直線的に変化したものが、よりモダンと感じる感性を我々は持っていった、あるいは植え付けられていったように思う。
それは道路が整備されつつある時代とともに世の中に求められたスピード感、高速への憧れと渾然一体のものだったのではないだろうか。
カルマンギアは、そんな意味ではまだ速く走ることを目的としない原始の丸みを魅力としたデザインであり、高速走行よりもマイルドな味付けの雰囲気を楽しむクルマだろう。
アグネスラムはクルマ選びにあたっても、自分をひきたたせるビキニ同様に自分の存在にフィットしたカルマンギアを選んだのだとすると、しなやかな曲線美をつねに意識したモデル特有のセンスのよさと言ってよいのかも知れない。このカルマンギアの全体がモッコリとしたスタイルは彼女の丸みをおびた体形とも渾然一体のものに見える。
 
 

ビクターの犬

 

あの頃、街の楽器店に行くと必ずと言ってよいほど、音楽に耳を傾ける犬のポップドールが置かれていたものだった。
昭和の頃、商店街では今のように着ぐるみが動いているのは見た記憶がないけれど、街角にはあちこちにこうしたポップドールが置かれていたような気がする。
翻って平成の世においても、たまに薬局でケロちゃんなどは見かけるものの、当時の隆盛は見られず、ポップドールの存在が営業上不可欠なのはKFCなどの一部のフランチャイズ店のみになったように見受けられる。
店頭ポップドール自体を懐かしいと感じる中で、とりわけこの犬を見ると懐かしく思えるのは、ビクターステレオの文字が示すとおり、今では、存在そのものがなくなってしまったレコード文化のキャラクターでもあったからだろう。
おそらくエジソンの発明した蓄音機以来のアナログ音楽プレーヤーで培われた伝統の重みと、その後のCDやデジタルオーディオプレーヤーの発達で失っていったものとの対比をこのビクター犬の姿に投影して見るからではないだろうか。
しかしながら、経緯を調べてみるとこのポップドールの対象は実在していた犬で、ニッパーというフォックス・テリア犬であることがわかった。さらに、これがビクターの商標になるまでの歴史は、それだけで長い文章になることも分った。
しかも、このニッパーが聞いていたのは音楽ではなく、亡き飼い主の声であった。なかなか忠犬ハチ公を思い出させる、こころ温まるストーリーである。
ず~っと音楽に耳を傾ける犬だとばかり思っていたので懐かしさと新しい発見をさせてくれた忠犬ニッパーであった。
 

 

蓮舫

 

事業仕訳でスーパーコンピュータの開発費を巡って発言した「2番じゃいけないんですか?」のフレーズが一躍有名になった民主党の蓮舫議員。
今ではすっかりショートカットで白いスーツを着こなし、容赦なくコストカットするイメージになってしまったが、その昔、この方もグラビアに登場するアイドルだったのだ。
初代アグネスラムとはずいぶんと路線が異なるが1988年度クラリオンガールとして青山学院大学在学中にデビューとあるから、在学中から芸能界入りしていた飛んでる女子大生だったのだ。
しかしながら名は態を表すというべきなのだろうか、学歴が示すとおりインテリ肌というのか、骨っぽい体つきには、ふんわりしたところがなく水着になってもあまりエロいとは感じなかった記憶がある。
やはり、こうなって泡で隠してみてもちっともエロくないのはもはや特技に近い気がする。
逆に言えば、グラビアアイドル時代は、今の議員にたどり着くまでの名を広めるためアルバイト程度と考えたほうが彼女の人生としては自然なのだろう。
昔、裸でグラビア飾ってましたよね、と追求しても、お風呂で裸になっちゃいけないんでしょうか?とやり込められてしまいそうな気がいたします。
 

2011年6月8日水曜日

脱脂粉乳

 
 
大体、ジェネレーションの似ている昭和世代の人々がジョッキを合わせ、年代のお話になると、リトマス試験紙のように使われるのが脱脂粉乳の話題だ。
その中で、ひとり、「私は最初から牛乳だったもん」とか言い出せば、「嘘つけ~!」の大合唱が始まったりもするのである。
そうなのだ、あの戦後間もない昭和30年代、米軍から支給されていたのかどうか定かでないが、小学校の学校給食の場には必ず登場し、写真のように鈍く光るアルマイトの食器に入って出てきては、児童を苦しめたものなのである。
なんと行ってもその独特のにおいが強烈で、風味などあったものではない。おまけに表面に薄膜が張っていてふーっと吹けばシワがより、飲むと口の周りに白い輪が出来た。今だったら家畜にさえ見向きもされないに違いない。
しかし、当時の日本は栄養状態も十分ではなく、戦時の飢餓を乗り越えてきた後だけに、食べ物を残すなんてトンデも・・・とばかりに、すべて飲み干すことを当時の文部省は強制していたのであろう。普段、優しい教師の教室でも残すことは許容されなかったのである。
この頃の校内での状況は、宮崎駿のアニメ映画”おもひでぽろぽろ”の中にも登場するが、やむなく児童たちは鼻をつまんで一気に飲み干すという最終手段を編み出し、日々、実践するしかなかったのである。
しかし昭和も40年代に入ると白い悪魔はどこかに消えうせ、普通の牛乳に変わった。ビンのぶつかり合うガラスの音に、ようやく塀の中から出されたような自由の風を感じたものである。
地域によっては、ビンのところとテトラパックのところがあったようで、これでもまた曖昧な記憶の中で、意見を戦わす昭和世代なのであった。
 
 

深夜型販売機

 
コンドームの自動販売機での購入経験はないのだが、こういった夜間の自動販売機でエロ本を買った記憶はあります。
そのころセミヌードがやっと、女性の陰部などはおろか陰毛の露出ですら国家警察が厳重に取り締まっていた時代であります。それはそれは消費者側におけるモチベーションも高かったのです。
こうした販売機は、18禁の成人図書であっても未成年にも買えたので、PTAに言わせれば悪書の拡散や青少年の非行につながる、街にあってはならない自動販売機だったのでございます。
昼間こうした雑誌が見えていては、やはり業者側も社会通念上まずいと思ったのでしょうか、前面に銀色のフィルムを貼って、マジックミラーのように夜間、照明が点灯するときのみ中身が見えるような自己規制をしながら生存を図っているものもありました。
こうなると昼間に銀色の販売機の場所をチェックしておいて、夜間買いに行くという寸法です。
しかし、こうした努力をして購入しても、中身はたかが知れたものでありました。
とてもモデルはティーンには見えず、セーラー服を着ていたのは何十年前なの?というオバチャン顔のシラケてしまうグラビアページだったりもしたものです。
それでも、次はもっと可愛い子かも・・・と、塀の外から背伸びして垣間見る禁断の果実、未成年にとってはわくわく体験記なのでありました。
また、こういったものが公園などに捨てられていると秘密基地に拾ってきたりして盛り上がるのが、当時の男の子の密かな遊びでもあったのでございます。
たいていはヨレヨレ。それが雨に濡れてヨレヨレなのか、それとも**でページがくっついているのかもよく分りませんでしたが・・・
 
 

 

コンドーム自販機

 
今でもあるのだろうが、昭和の時代、あまり昼間目立たないところとか、薬局の片隅にコンドームの自動販売機が設置されていた。
大体スペック的にはこの大きさで、明るい家族計画などのコピーが書かれていたのを記憶している。
このことからして望まない妊娠を避けるバースコントロールがメインの目的であったのは明らかである。
そこが、ちょっとエッチを純粋に楽しみたい、というのが表に出ていて気恥ずかしく、売買に際して人を介さない自販機が成り立っていた一つの要因でもあるのだろう。
ところが1987年に神戸で日本初のHIV患者が確認されると、コンドームはHIV感染を防ぐためという大義名分を得て、生セックスは危険ですとばかりに、医薬品同等な扱いをうけて、以前とは比較にならないほどメディアにも登場、子供も知っている社会的認知度の高い商品となった。
これ以前では、コンドーム自体がコンチャンだとかコンドーさんといった隠語、あるいはスキンだとかサックだとか呼ばれることが多く、11PMならいざ知らずNHKの番組でコンドームという言葉を聞くことすら、ほとんど無かったように記憶している。
こうして今では、性教育の場でも堂々と取り上げられ、実物による正しい付け方までが指導の対象となる時代においては、薬局薬店はおろかコンビニ、スーパーでも売られている。
が、やはり人前で買うのは、ちょっとはばかられる商品ではあるだろう。まだ自動販売機は完全に世の中から消えてはいないようだ。
もともと夜間利用の多い商品であろうから、自販機であれば人通りのない時間帯にこっそり買えるというところがミソなのだが、夜こっそり買った経験も、人目をはばかりながら買いに来ている人も、あまり見たことがない。
果たして、こういった販売機で月にどのれくらいの売り上げがあるものなのだろうか?コカコーラのように商品を補充している光景も見かけない。
今日、コンドームはネット通販が最も得意とするジャンルではないかと思うのだが、ネット通販を使わない人種用なのかも知れない。
 

デコチャリ

 
物が不足している時代にあこがれるのは、豪華な飾りつけであったのだろう。
昭和の一時期、少年の乗る自転車には二灯のヘッドランプのほかにウィンカーから光の流れるフラッシャーのテールランプまでが取り付けられ、トラック野郎のデコトラのようになっていたことがある。
電動アシストでもない人力オンリーの自転車にこうした発電負荷の大きくなるものを取り付けたら、ダイナモの負荷が増し、走行性能事態に大きな支障を及ぼしそうなものだが、当時はこれがカッコイイと思われたのだろう。周囲の少年たちがたいした意味もなくフラッシャを点灯させては悦に入っていたものであった。
  

2011年6月6日月曜日

PC9801

 

パソコンがまだ業務で使うには懐疑的だった時代。
社内にはPC8001があるにはあった。
しかし既存で動くビジネスソフトも少なく、使っていたのは他のシステムがなければ勝手に立ち上がるROM BASICだった。
せいぜい辞書ディスクと文書ディスクを交換しながら、ワープロソフトで文書をつくるのが関の山。
それも手書きに自信のない一部の人たちが愛好していたに過ぎず、達筆な諸先輩方からは手で書いた方がよっぽど速いのに!と陰口を叩かれながらである。
そんな調子だから、社内のパソコンは昼休みにゲームをしたり、BASICで図形を描いたりと遊びに使われることが多く、一部の卓越したプログラミング技術を持つ者以外、このパソコンを使って業務に結果を出している者は少なかったのである。
しかし、それまでの8bit機パソコンにかわり、1982年になって登場した実用16bit機が、このPC9801であった。
このPC9801が投入され、多くのアプリケーションソフトが漢字ROMを搭載したNECのDOSベースに開発されるようになると事態は一変する。
一部の分野において仕事においてもパソコンは不可欠な時代になったのだ。
そして、この後、NECは他のメーカーを圧倒、独占的な地位を形成しPCといえば98という一時代を作り上げてゆく。
オリジナルの無印98のあとも、9801の後にいろいろな記号がつけられバリエーションが増殖、デスクトップからラップトップさらにはノートまでキューハチはパソコンの代名詞と化してゆく。
技術系の業務においてもMS-DOSが必須科目となり、config.sysを書き換えるのにエディターを使ったり、少ないメインメモリの中にいかにプログラムを収めるかなどに苦労させられることになった。
国内ではこの98時代が長く続き、Macなどの異色で高嶺の花を横目でにらみつつも、お仕事は98で・・・がパソコン界の王道であった。
だがOSはMS-DOSからWindowsに、さらにメモリ、CPUといったハードの格段の進歩により漢字ROMのアドバンテージは消滅、国際標準と呼ばれるDOS/Vマシンの登場により、もはやNECの優位性は崩れ、どれもこれもがWindowsを載せた各メーカーのDOS/Vパソコン百花繚乱の時代を迎える。規格が統一されてしまえば、あとは流通を制したものが勝者となる。安い部品を組み合わせDellなどに押されてゆくことになった。
そして今となってはPC98なんて知らない世代も多く、知っていても98というと、パソコンよりもOSのWindows98を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。
だが、確実に国内標準を達成し、一時代を作ったパソコンの元祖が、このPC9801ではないかと思うのである。  
 

2011年5月30日月曜日

山本晋也




子供のころ盗み見して、ときめいていた11PMよりも、ずいぶん大人になってからだったがトゥナイトという深夜帯の番組があった。
11PMの路線をもっと夜の大人向けにしたようなものだったと記憶しているが、このとき歌舞伎町界隈などの性風俗を中心にレポートして注目を集めていたのがこの人。山本晋也監督であった。
監督と呼ばれるとおり、もとは映画監督なのだが、日活ロマンポルノなど、成人向け映画を得意としていた彼らしく、性風俗のお店に行き職場の風俗嬢相手に取材したり、ラヴホテルに突撃、利用者カップルに直接インタビューする等の設定は当時TVの企画としては大胆で良く覚えている。
ソープ嬢に、「あなたのお仕事は?」と問いかける彼に、「厚生省認可の福祉事業です」とあっけらかんと答えを返す彼女たち、こういう時代なのだと感心する山本晋也監督。
働く目的も、ブランド品を買うため、もっとおしゃれを楽しむため・・・
そこには、かつての病気の親を抱え進学も諦め、田舎を離れて働く悲哀に満ちたソープ嬢の姿は微塵もなかった。
時々の社会の断面を切り取り、大衆に再確認させることが映画監督の重要な務めの1つであるとするならば、こうしたコメントから社会を映し出す彼の手法もまた、映画でこそないが、監督のお仕事に違いなかった。
人間の性ほど要望、趣向が多様で、もともと規範が不明確、正常とか異常とかの判別のつきにくい分野は社会に存在しない。こうした問題に直面したとき、男女のカラミを撮ってきた山本監督の柔軟な感性はきらめいていた。
「ほとんと、ビョーキ」という、当時、流行語にもなった言葉は、人間の性をテーマにしてきた監督だからこそ、自然に吐けたフレーズであり、プライベートな性は他人から見たらビョーキであっても、それもまた良しとする人間味のある山本哲学の真髄ではないか。そんな風に思える。
あまり映画を撮らない映画監督が時折、社会を鋭く斬ることがあるが、この人もコメンテーターとして今でも、ひっぱりだこのようだ。
風貌も性格も今で言うチョイワル親父風でもあるが、もともとC調な性格というよりも、裸の付き合いによる豊かな人間経験が、彼独特の鋭さと優しさを生んだのではないだろうか。とぼけた顔はしているが、切れ者だと私は思う。
NHKの寅さんシリーズの解説が出来るようなポルノ監督は、彼しかいまい。

 



2011年5月28日土曜日

武田久美子と貝殻水着

 
昭和の時代、写真は銀塩写真、白黒から総天然色へとカラー写真に進化したがカメラは、まだデジタルではなかった。
ピントも露出も手動が普通で、高価なカメラを持って限られたフィルム枚数の中で傑作を撮るには技術も気合いも要求された。したがって写真はプロが撮るものとの意識が強く、当時は写真家と呼ばれる撮影専門の職人さえいる時代であった。
逆に世に出る写真の枚数が圧倒的に少なかったこのデジタルフォト以前の時代にはロバート・キャパや渡部陽一ではないが、行くだけでも大変な戦場で危険を犯して撮影しなくても一枚の写真によって有名になるということも、しばしばであった。
麻田奈美が林檎ヌードで一躍、全国で有名にもなれば、武田久美子はこのシェルビキニで有名にもなれたのである。
このホタテガイで作った貝殻水着。ロケ先のグアムで食事中に武田本人が思いついたという、ちょっと眉唾っぽい逸話も残っている。
麻田の林檎ほどオリジナリティを感じず、ショッキングに感じなかったのは、ヌードダンサーの極小ステージ衣装として貝殻はすでに刷り込まれていた記憶だったからかも知れません。
武田久美子といえば東大生のアイドルだったりもしたが、日ごろストリップには行かないであろう彼らには貝殻ビキニは新鮮で十分ショッキングだったのかも知れませんね。
正直なところ、ホタテガイは扁平に過ぎ、蝶つがいの部分が幅広く張り出し、形状的には、あまり女性の陰部を隠すのにはエロティックな素材ではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか。もしかすると貝の中身を隠すというジョークだったのかも知れませんね。
そういえば市販されている貝殻水着でもボトムの貝は上下さかさまでございます。
  
 

模型屋



昭和の時代。地方の都市でも街に行けば模型屋というものが1軒や2軒はあった。
そして店の奥では仏頂面の親父が店番をしていたりするものだった。
そこにはプラモデルから、ラジコン、塗料、科学教材、バルサや竹ひごといった素材までが小さな店内に所狭しと置かれ、棚に詰まれたプラモデルの箱を見上げたり、床にしゃがみこんで部品を手にとったりしながら少年たちの目は輝いていたものだった。
きょうびの子供たちがプラモデルを作る姿は、ほとんど見かけない。少年の遊びとしてのプラモ作りはゲームやパソコンに押され、プラモデルは昔を懐かしむ大人のものになっているように思える。
こうして愛好家が減って生産数が少なくなったことで、ますますマニア向けに進化したことで高価になった。
今では1/72の航空機でさえ千円単位だが、昭和40年代はレベルの飛行機でも¥100のワンコインで買えたのだ。
普通は百円玉を握り締めて、こうした買い物をしてくるのだが、そのころプラモデルの田宮模型は何をしていたかというと戦車のトップメーカーだった。ような気がする。
どうしても我々の世代には、国産プラモで飛行機はハセガワ、戦車はタミヤという色分けがあるのは、あの頃の記憶によるのだろう。
そして戦車と言えば、なんといってもドイツである。リモコンのタイガーⅠ型は高嶺の花であったが、持っていると戦争ごっこのヒーローであった。
 
 

2011年5月27日金曜日

林檎ヌード



最初に、その大型ポスターを目にしたのは、確か岡田屋MORESであっただろうか。
正面を向き、股間に赤いリンゴを持って立ち尽くす麻田奈美の等身大ほどの大きなポスターは、当時、衝撃的だった。
平凡パンチなどの男性誌に特集されたことでオナペットとしても有名になり、このポスターは独身男性の部屋に掲げられることとなる。
林檎ヌードはオナペットを超えて、一枚の写真としても、あの時代を反映したものといえるのではないだろうか。
ヌードでありながら、この青柳陽一氏の撮られたという写真には、いやらしさはなく股間に林檎という独特の演出にも関わらず自然体の少女が投影されていた。
おそらくビニ本モデルがやっても何も発しなかったであろう鮮烈なオーラに満ちていたのは、Dカップと言われる当時、若く豊満ではじけそうな彼女の肉体に性的欲望の対象としての自覚はなく、肥満とのギリギリの線で完熟林檎直前であったからであろうと思える。
また、日本では陰毛の映った写真の公開が許されない時代であったことも、こうした歴史的所産を生んだ社会的背景ともいえるだろう。
それまで股間を隠すものと言えば、イチジクの葉というのが世界の常識であったし、それは人類の創生に近い時代からの歴史的に刷り込まれたもので、だれもそれをリンゴで置き換えようとはしてこなかったように思う。
まさにアップルの衝撃であった。

2011年5月22日日曜日

ラブテスター



自分で持っていたわけではなかったが、任天堂のラブテスターという商品があった。
ネーミングも形もそのまんま電気屋さんの使うテスターのようなシロモノ。
本体が片手に収まるアナログメーターで、セコニックの露出計にも似ている。
電気テスターでいうところのプラスの赤線とマイナスの黒線の先には接触棒の替わりに、それぞれ金属級がつけられていて使用法は簡単。
愛情度をチェックしたいアベックがそれぞれ片方の手でこの金属球を握り、空いたもう片方の手で握手をすれば、針が動いて愛情度をパーセンテージで表示されるというもの。
特にスイッチ以外に細かな設定などもなく、いたってシンプルな機器は、嘘発見器のような実用というよりもパーティグッズといったジャンルではないのだろうか。
機械内部でやっていることも、単にお互いの体を通した場合の電気抵抗値を計測しているだけだと思われるのだが、好きな彼女で汗ばんでいたりすれば抵抗値が下がって愛情度が上がったりもするのだろう。嫌いで冷や汗の場合と区別がつくのか、当時の私には試す機会はなかった。
最近では、ボディタッチが見直されたのか、こんなにんげんがっきも登場してる。 
 
 

早見優



今もテレビに出ている優ちゃんだが、最初に見たのは歌手デビュー前にでていたペンタックスMGのこのコマーシャルだったように思う。
ユーミンの”あの日にかえりたい”をバックに、ライバルに負けた悔しさか競泳水着で放心する優ちゃん。傍らからタオルをかけられるシーンをボーイフレンドが撮影しているという設定だ。
ライバルに負けたフラッシュバックのレースシーンの映像が被り、よくある青春の一コマを感じさせる。
コマーシャルとしては、つくりこんだこうした演出にも関わらず、出ていた早見優は普通の高校生のようで彼女の初々しい姿に惹かれたものである。
その後、歌手デビューを果たし、このコークのCMをはじめ、彼女はたちまちスリムで水着のよく似合う人気アイドルになっていった。
グアムやハワイで育ったという生活環境からか、本人自身は胸の小さなことに体形的な劣等感を抱いていたようだが、まだグラビア・アイドルや巨乳アイドルというジャンルのなかった当時、日本では小さな胸のアイドルが好まれた時代だったといえるだろう。
顔はまったく日本人にも関わらず流暢な英語を話せるということで、アイドル歌手としてとともに、バイリンギャルとして良く英語の番組にも登場していた。
ペンタックスMGのCMの中では”君が大人になるころ、ボクはプロになっているかも知れない。”とのコピーメッセージが流されていたが、早見優が大人になっても彼はプロのカメラマンになれなかったのか、このCMから14年後の1996年に外資系銀行員と結婚している。
ペンタックスMGには同じユーミンのBGMでもこんなバージョンのCMもあったらしいが、当時としては、あまり見た記憶がない。 
 

 
 
 

2011年5月18日水曜日

ソープランド


その昔は赤線地帯。そして1958年に赤線が廃止になってからは、こうした射精産業の殿堂はトルコ風呂と呼ばれていたのだった。
確かに、男が女性を水商売で稼がせ貢がせるのをその昔、”トルコに売る”などと言っていたのを聴いた記憶がある。
しかし、売られる先は地中海に面する国、トルコとはまったく関係がなく、名称はスチームバスを置いて特殊浴場として認可していたことに端を発するのだろうと思う。
なにかしら法の抜け穴を作ってあったのだろう。確かに業務では使用しない蒸し風呂が置いてあった。多分、これがトルコ風呂と呼ばれる所以ではないかと、密かに思っているのだが、実際はどうなのであろうか。
そしてあるとき、風俗の王様であったトルコは突如ソープランドへ改名した。ものの本によると1984年12月19日のことだそうである。
きっかけとなったのはトルコ本国の方からのクレームらしい。もっともなことである。
おおっぴらではないにしろ、金銭の授受で成立する男女の性の営み、すなわち物を売買する以前からあった、もっとも歴史のある商売である売春と祖国の名称が日本で一意的に扱われていることについては、トルコの方々にしてみれば、様々な誤解を招き、迷惑千万なことである。
他に良い名前がないか良く考えたのだろう、ソープランドへのネーミング変更は、結果からみれば業界としても成功であったろう。赤線やトルコより、なかなかおしゃれで可愛く、秀逸に思える。
これにより社会的にも認知され携わる方々への偏見も少なくなったように感じるのはボクだけだろうか。
呼び名の変遷はあれど、性情報氾濫の今日でも童貞君の筆おろしの場として、また遊び人のための風俗の王様として存在しているようだ。色欲と貨幣経済がある限り不滅の産業。男と女は時代が変わり趣味も多様化すれど、いたすことに大きな変化はないということだろうか。
  
 

FFファミリア


なんとか食べられるようになった戦後の日本で、経済復興を支えたのは、マイカーへの強い憧れでありマイカー取得への強いモチベーションであったのではないだろうか。
クルマ、カラーテレビ、クーラーいづれもそれまでは庶民の手の届かないものが大衆化し、さらにはパーソナルになっていった。
しかしボクが子供の頃の車は今のようなFF車全盛ではなかった。
リアエンジン車もあったが、その多くはフロントにエンジンを置き、プロペラシャフトを介してリア・アクスルに動力を伝達、後輪を駆動するという、いわゆるFR車が乗用車の標準であった。
こうすることで、重量バランスを適正に調整できたし、プロペラシャフトの通るトンネルは車体の縦曲げ強度を高めるのにも役立った。
しかし、昭和の時代も進み、ファミリーカーが広く普及し出すと、国民の趣味も多様化、乗せる遊び道具も増えてコンパクトな車体にスペースユーティリティが求められる時代になり、駆動系をすべて前部に集めたことでバッゲージスペースを有効に使えるFF車がファミリーカーの主流の座を奪っていった。
このFFファミリアも、そのユーザーニーズを的確にとらえて、よく売れた車だった。デザインも2ボックスになり広く開くリアゲートは新しい時代への扉のように感じられた。
このパンフレットを見るとFFファミリアにはトランクルームをもつ3ボックスタイプのままのFFもあったようだが、当時、目にしたのは圧倒的にFF2ボックスのファミリアであった。
以降、FFが大衆車の標準になってしまうのだが、重量バランス的には頭が重く、タックインというFF車独特のステアリング特性は走り屋からは嫌われ、彼らは希少になりつつあるFR車を選んで乗る少数派へとなって行くのであった。
 
 

2011年5月17日火曜日

不二家とペコちゃん




日曜日には、家族で不二家に行って、サンデーを食べるというのが、昭和の時代の子供達にとって、ちょっとした贅沢だった。
当時は、のどが渇いたら水道の水を飲めと言われ、甘いお菓子や清涼飲料水も今のように巷に溢れていたわけではない。
チョコレートのかかったアイスクリームは、見ただけで子供心をくすぐる非日常アイテムであった。
そして、普通は前を素通りするだけの不二家の前では、このペコちゃんのポップドールが必ず立っていた。
たまの日曜日、至福の時を過ごして店を出るとき、コツンとペコちゃんの頭をこづくと、ふらふらとしばらく揺れ続け、見送ってくれる姿が印象的であった。
ペコちゃんは、女の子だが、このほかにボーイフレンドなのか兄妹なのかポコちゃんという男の子も居た。
まだファミレスのない時代、贅沢なデザートの食べられるレストランとして確固たるブランドを築いていたが、道路沿いに次々にファミレスができるような時代になると競争も激しくなり、国民生活が豊かになるにつれて、少年も成長し、不二家への憧れはだんだん薄くなっていったように思う。
昭和の時代、ケーキやミルキーで親しまれた国民的ブランドも平成に入ると賞味期限切れの事件が明るみに出るなどネガティブな部分も報道され、ブランドも傷ついた。
昔は食べて美味しく食べられれば賞味期限なんて気にしなかったよね~、と時代の変遷を想うとともに、今ものんきに揺れるペコちゃんの笑顔は、昔のまま心の中に大事にしまっておきたいワンシーンになっていったのだった。


2011年5月16日月曜日

ロマンポルノ



お茶の間に家庭用テレビが普及する以前の大衆娯楽と言えば、映画であった。
同様な観点で考えると、家庭用ビデオデッキが普及し、アダルトビデオが氾濫する以前のポルノと言ったら映画館で見るこうした成人映画だった。
女の裸を見たいというスケベ心があっても、ストリップに行くほど勇気はない。そんな一般男性にとってはストーリー性もある映画という表現手段を用いたポルノ映画は、テレビで放送できない性的欲望を満たすコンテンツとして魅力を持っていた。
以上が日活ロマンポルノの本質であり、銀幕のスターという言い方も消滅し、テレビに娯楽の王座を奪われつあった映画が生き残りをかけてとった1つの戦略であったのだろう。
消費者である男にとって見れば、あまりストーリーの重要な映画としてよりも、誰の裸が見たいかで選んでいるに過ぎなかったのだが、演じる女側にとってみればポルノ女優であっても女優であるとの自意識に変わりはなく、将来は脱がない女優になるための名前を売るワンステップとして選んでいるようなところもあったように思う。
美穂じゅんも日活ロマンポルノ出身だから、脱いでもすごいのだが、性格があっけらかんと明るすぎてポルノに期待される卑猥さや背徳性に欠ける部分があった。これが逆に大衆受けする素養として普通の女優に抜擢され、タコ社長の娘寅さんにまで出演していたから、彼女が裸が売りのポルノ女優から脱裸への女優転進コースの前例をつくってしまったともいえるのだろうか。
そしてこのロマンポルノもビデオデッキの普及に大きな役割を果たしたといわれるアダルトビデオによって需要を失い、全盛時代を終えることになる。
裸のコミュニケーションも個から個への分散型のメディアへととって替わられる宿命のようだ。

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2011年5月15日日曜日

ストリップ劇場


まだ家庭用ビデオデッキが普及せず、アダルトビデオなどもなかった時代、彼女の居ない童貞男にとって家族以外の動く女性の裸を見るチャンスは日常的ではなかったが、18歳を過ぎれば、ストリップ劇場で生の裸を見ることができた。
それはたいてい駅からはちょっと離れた人目につきにくい路地などに、存在していた。
地域によっては駅前商店から少し距離をおき客も車で来るために駐車場つきのところもあった。
顔の見えない入り口で入場料¥5000程度を払い、中に入ると暗がりの中のスポットライトに照らされた舞台の上で彼女たちは肌を惜しげもなくさらしていた。
ビートのきいた曲をバックに舞い、脱ぎ、肢体を露にしてゆく様を食い入るように見つめ、かぶりつきにとりついた男達は目を輝かせながら花園を覗き込んでいた。
そんな意味では生の女体を拝む最初の機会がストリップ劇場であった男性は多いのではないだろうか。
何人かの踊り子さんが順番に踊りからラストのご開帳まで順を追ってステージを繰り広げてゆくのだが、踊り子さんによっては、お客さんを舞台上に上げ、本番をする生板ショーと呼ばれるステージを行っていた。こうして当時、18歳の童貞君でも映像メディアでは見ることの出来ない本番行為を目の当たりにすることが出来たわけで、インターネットで見るより実体験に近い女を知っていたと言う見方もできるのかも知れない。
大体、踊り子さんは10名程度で順番に登場するが綺麗なお姉さんは1人、2人というのが相場で、ひいきの子が終わってしまうと、もう一周見るか、そろそろ帰るかと悩むのであった。
こうしたストリップ劇場はアダルトビデオの普及にともない、次々に閉館となっていった、観光温泉街などに残っていたものがなくなった時点で最終的に消滅したのではないかと思うが、無料ポルノが氾濫する時代であってもライヴという意義は捨てがたく守るべき希少な風俗文化なのではないだろうか。
 
 

2011年5月14日土曜日

大きいことはいいことだ



気球に乗った山本直純がCMに出ていた森永のエールチョコレート。
そのときのコピーが”大きいことは、いいことだ。”だった。50円で買えるチョコレートが、このくらい大きければ文句ないだろう、といった調子だ。
そう、戦後昭和の時代は太平洋戦争の敗戦によって短小コンプレックスのあった時代だと思う。
アメリカに負けたのも大量の物量とともに、その大きさにであった。
九七戦車とM4シャーマン戦車では、大人と子供ほどの違いがある。ゼロ戦と比べるとヘルキャットなど化け猫に近い大きさだ。
そもそも人間自体のつくりからして日本人は欧米人に比して、背は低く、鼻ぺチャで、足は短くといった特徴をネガティブに感じていた時期であり、スマートで大きいものへの無意識的な憧憬が根底にあったように思う。
サニーの”隣の車が小さく見えます”は有名なコピーであるが、そのころ正常進化の方向性とは大型化だったのだ。
それまで家庭になかったものが手に入るというだけで子供はおろか大人たちも有頂天だったころ、消費財という考え方も廃棄にかかる費用などもおよそ頭にはなく、テレビもステレオも車も大きいほど格が上で高級と思われていた時代だったのだ。
翻って平成の世では、恐竜のように大きくて鈍重なものは嫌われ、軽薄短小が好まれる時代に入っている。
そこには、工業製品においてもコンピュータの発達により、肉弾戦の物理的な戦いから、高度な情報戦へとシフトした価値観があった。
機能が同じならば小さく軽い方が、優秀。デカくて重いのは小型化への努力の怠慢であり、資源の無駄食いという烙印になっていったように思う。
レアアースなどの枯渇する希少な資源でいかに効果をあげるかが求められ、パソコンの世界でも電気の流れる距離を縮め速度を上げるには小型化が必須だったCPU、そしてメモリもHDDもいかに同じ大きさで記憶容量を増すかが勝負である。
世の中は殴り合いの喧嘩の強さではなく、いかに機能をコンパクトに凝縮するかに血道をあげる世界へとシフトしたのである。
今、技術は進化し、この進化の方向性である軽薄短小化を阻んでいるは、実は人間そのもののサイズだったりする。重たい人間は航空機や車の燃費を低下させ、太くて、でかい男の指はキーボードの小型化を阻んでいるのだ。重厚長大コンプレックスが欧米人に蔓延している・・・というのは嘘だけど、あまり短小を気にしなくても良い世の中になったかも知れない。
  
 

2011年5月12日木曜日

サインはV


昭和の時代、スポーツは根性だった。
運動解析に基づいた理想のフォーム研究だとか、合理的なトレーニングメニューだとか、バランスのとれた食事管理というよりは、ひたすら他人以上に頑張る時代だった・・・ような気がする。
日の暮れかかった運動場でウサギ飛びでグランド3週!なんてのをやらせていたら平成の時代では、許されないだろう。でも許されたのだ。否、推奨されたのだ。
このサインはVも、そのスポーツ根性ものの代表格だったはずである。
しかし他の当時のスポーツもの同様、稲妻落としなどという魔球が出てきたりで、消える魔球の巨人の星同様に科学性には乏しい内容であったように記憶している。
ジグザグに落ちてきて相手を惑わすボールの挙動、どんな原理説明だったか忘れたが、無回転の球体の後ろに出来る非対称渦列、いわゆるカルマン渦列による振動揚力による蛇行であるとの学術的解説はついてなかったはずである。
それより男性諸氏に興味があったのは、登場するメンバーだろう。
彫りの深いオリエンタルな顔立ちのジュン・サンダースこと藩文雀や、庶民派アイドル的な朝丘ユミこと岡田可愛、そして限りなく透明に近いブルーで巨乳を披露した中山まりも出ていた、実のところ彼女たちのブルマ姿の方が必見であり、 少年もそれだけ見ていたのではないだろうか、印象的なストーリーを思い出そうとするが、細かい内容などほとんど覚えていないことに改めて気づく。
当時まだ東京オリンピックで優勝したバレーボール女子選手たちは、東洋の魔女と言われた時代である。
ルックスの可愛い選手など女子バレーボール界には存在ぜず、それこそビーチバレーの浅尾美和など想像することすらできない半世紀前のことを思うと、可愛い子のブルマ姿が見られるサインはVがお茶の間で広いファン層を獲得していたことは想像に難くない。

 



アメ車



う~ん。フォード・マスタングやマーキューリー・クーガー、シヴォレー・カマロそして、このダッジ・チェレンジャーと燦然と光り輝いていたアメ車たち。
この頃のアメ車は、国産車では、とうていマネの出来ない領域にあり、圧倒的な魅力を誇っていました。
なんと言っても、この馬鹿デカさが、国力の差、余裕の象徴ですものね。
今のコンパクトで高性能なFF国産車などに比べれば、ボンネットを開ければスカスカ状態の密度の低~い車だったことは確かなんでしょうが、胴長短足、黄色い肌の日本人が、まだ敗戦の屈辱から完全に立ち直れて居ない時代であります。
カローラが1000ccより少し大きな1100ccサイズで登場してはサニーに対して100ccのゆとりをアピールすれば、すぐさまサニーは大型化し”となりの車が小さく見えま~す”と対抗するなど、短小コンプレックスを引きずっていた日本人にとって、アメ車の金髪美女のような何にも制限されない、のびやかなプロポーションは、永遠に憧れの的のように思われたのでございます。
美しい・・・・!走るだけで精一杯の国産車を日々、眺めていた我々にとって、たまに親父が買ってくる週間プレイボーイの折込を飾る、こうしたアメ車の写真を盗み見ては、ヌードとはまた別な高揚感を覚えたものなのであります。
それにひきかえ、今のアメ車は何の魅力もないですなあ。SUVのデカさなどはは今となっては愚鈍にしか見えません。
馬鹿でかいSUVなんかばっか作ってるからGMは潰れるんだ、もっと時代を読め!って感じで攻守入れ替わっているのでございますから、怖いものであります。いえいえ、震災でトヨタは生産を落とし、その間にGMがまた返り咲いているのですから、勝負はまだついたとはいえませんが、あの少年の頃に、あこがれたアメ車はもう二度と戻らないのだろうと思います。マスタングのリニューアルにもがっかりしました。ウェストのくびれがないんですもの。ズンドーな馬じゃ、種馬だって、そっぽを向きますね。
 
 

2011年5月10日火曜日

飛燕




飛燕は日本の戦闘機の中では珍しい液冷エンジンを積んだ戦闘機である。
ドボアチンから技術習得をした川崎のお家芸ともいえる液冷エンジンの良さはなんと言っても正面面積の小さいことだ。当然、面積が小さければ空気抵抗は小さく、前方視界にも優れる。飛燕という愛称も機首に行くに従って細く絞られたこの独特のスタイルが、くちばしをもつ鳥の姿を彷彿させることによるものだろう。一方、空冷の星型エンジンを積む隼などは、まったく鳥らしくはなく、名前と機体がマッチしない。ネーミングとしてはこの飛燕は秀逸といえるだろう。
このユニークな戦闘機は、その丈夫で大きなアスペクト比の主翼とのマッチングもあって優れた性能を示したが、問題はドイツのダイムラーベンツからライセンスしたDB601のエンジンの量産にあった。
結局、クランクシャフトの生産が思うに任せず、エンジンを取り付けることが出来ない機体が工場に多数並ぶことになり、やむなく液冷用の首の狭い機体に空冷星型エンジンを取る付けるという離れ業をやって誕生したのが五式戦闘機である。
普通、当初の設計から逸脱したスペックのエンジンをつけたら本来の性能を引き出せないものだが、前面面積こそ大きくなったものの、冷却循環系が不要で簡素になった分、軽量になり性能は向上し、開発した技術者の間からも、最初からこの方が良かったかも知れないという発言が聞かれたという。
格好は良かったが、慣れない液冷エンジンで悩むよりは、空冷で数をそろえたほうが戦力にはなったかも知れないということだろうか。
五式戦は機首を上下から見るとまるでオタマジャクシだ。設計者、土井さんは、事実を見据えた上でかなり強引なことを平然とやってのける人であった。 
 

堀ちえみ




あまり歌の方では記憶がないのだけれど、アイドル堀ちえみを印象づけたのは、ドラマ、スチュワーデス物語ではないだろうか。
その昔、スチュワーデス物では紀比呂子が主役を演じたアテンションプリーズというテレビドラマがあって、その焼き直し的なところもあったが、教官であった風間杜夫とのラヴロマンスや「私はのろまな亀です」といった、せりふは一時、有名になり、巷でよく真似されたものである。バックに流れる主題歌もその昔、フラッシュダンスのテーマとして使われたアイリーン・キャラの"WHAT A FEELING"が使われておりいろいろな懐かしさを感じつつ、堀ちえみの大根役者ぶりを堪能できる番組仕立てであった。
先のアテンションプリーズもこのスチュワーデス物語も撮影協力したのはJAL。
当時はナショナルフラッグキャリアとして国際線の花形であり、スチュワーデスとして目指すには最高峰であったのだから、当時は倒産するとも思いもしなかった。時代は変わるものである。
今日、更に焼きなおしバージョンが登場するとすれば、ANAの全面協力となるであろうか。
一方でこの堀ちえみ、私生活の方では、ドラマの役ほどドジではないようで先日、発表された、グラビアでは、とても5児の母とは思えない人妻の色香を披露していた。
のろまな亀では、そんなに繁殖はしないし体形も維持できないに違いない。けっこう抜け目なくやることはやっている亀さんであった。
※リンクさせていただいたアテンションプリーズの映像に出てくる飛行機も古くて興味深いので、飛行機の好きな方はご覧ください。
 
 

2011年5月6日金曜日

麻丘めぐみ






平安時代のお姫様のようなスタイルの長い黒髪、そして鼻にかかる甘い声で”わたしの彼は左きき”という風変わりな歌を歌っていた彼女。
今、見ても、ちょっとブリっこなイメージはあるのだが、当時は、まだそういう表現すらなかった。
楽屋でタバコを吸っているのがバレたことがあったが、清純派に見えて、その裏ではけっこうワルな一面もありそうな雰囲気が良かったという見方もできるかと思う。
いうなれば保育園の保母さんみたいに昼間の幼児相手の営業用スマイルと、やってらんねえよ~、ったく!と裏では酒飲んでタバコ吸っている、そんな二面性によるギャップにこそ彼女本来の魅力があった。・・・と言うのは、証拠に乏しく単に筆者の屈折した思いだけかも知れないのだが、可愛くもありながら、単なる清純派アイドルではない。そんなところに青春時代の僕は魅力を感じていたように思う。
NHKのFM放送、ゆうべのひとときを聞きながらCDラジカセでエアチェックしていた時代であった。
デビュー曲の”芽ばえ”をはじめ、”女の子なんだもん”、”森を駆ける恋人たち”、”アルプスの少女”等、多くのヒットに恵まれていたが、最近はどうしているのだろうか。
彼女の”わたしの彼は左きき”のヒットにより当時、まだ少なかった左利き商品が売れたというから日本にユニバーサルデザインを持ち込んだ最初のアイドル歌手とも言えるのだろうか。

コロナマークⅡ

 

 
コロナにマークⅡという車があった。
マークⅡというからには、コロナのバージョンアップで、その後はマークⅢ、マークⅣと改良を加えるごとに末尾の数字が増えてゆくものだと思っていたのだが、マークⅡはコロナとは別の車で、マークⅡが出ても、コロナの系譜はコロナで継続した。
さらに、マークⅡのモデルチェンジでも、マークⅢとはならずに、マークⅡの新型になるだけということが分った。
日本の車はスタイル的にも、このあたりからかなり欧米化が進むように見えるだが、ネーミングについては欧米のしきたりには素直に従わずにマークⅡという語感のちょっとしたプレミア感を狙ったものだったようだ。
今もトヨタにはマークXという車があるが、これもバージョン10という意味ではなさそうだ。
 
 

桜田淳子




ようこそ、ここへ、クッククック、私の青い鳥
花の中3トリオの一人だった桜田淳子は、やっぱし早苗だべさと、イセキ農機のCMでは訛りを披露する米どころ秋田生まれの色白美人だったが、芸能界の中では、やや線の細さも感じられる普通の女の子だったような気がする。
トリオには、歌唱力で群を抜く森昌子や、色っぽい眼差で大人びた歌詞を堂々と歌い、時代に残る歌手にまで上りつめた山口百恵がいたことで、彼女の存在はどうしても3人の中で控えめに映って行ったのではないだろうか。
次第に普通の女の子だったデビュー当時のさわやかな笑顔にも、そうした焦りが影響したのか力が入って行ったように思える。
本来、勝気な彼女にとって同期との競争心は、心身を疲弊させ、やがて統一教会への入信、さらに合同結婚式や統一教会の一連の騒動を機に彼女は一般的アイドルからは距離を隔てた存在になっていったのではないかと思われる。
グラビアで見た彼女のビキニ姿はスレンダーで、ふくよかな昭和的アイドルというよりも平成でも通用するモダンプロポーションであった。
「この花は私です、やっときれいに咲いたのです」という台詞で知られる”花物語”をはじめ、ならべてみるとヒット曲も多い。最初に書いたクッククックの”私の青い鳥”がデビュー曲ではなく、”天使も夢見る”であった。デビューしたころは帽子をトレードマークにしていたように記憶している。
その後も”天使の初恋”など天使シリーズもあったが個人的には”十七の夏””はじめての出来事”等が思い出に残っている。個人的に「特別に愛してよ~♪」と願う多感な青春時代であったからであろうが・・・

 
 

X-15




車でも飛行機でも、あまりに速いと速いとは感じなくなる瞬間がある。
もはや飛行機なのかさえ定かでなくなったX-15はそんな枠を超越している機体だったといえよう。
もうこれ以上は揚力で飛ぶよりも、人工衛星のように地球の周回軌道に乗ってしまいそうな勢いを感じるからである。
実際に記録した速度はマッハ6.7、最大到達高度は107.960kmであったというから第一宇宙速度には達しないが、すでに航空機の最高速度でも運用高度でもないことは容易に想像される。
当時は東西冷戦の時代だから、当然、開発費が軍事からの支出でまかなわれていたことは想像に難くないが、こうした実績の積み重ねの中からスペースシャトルにつながる技術も醸造されたことを考えれば、科学技術は純粋に技術であって軍事も民事もないことも理解できようか。
また最初に車でも・・・と書いたが、ソルトレークシティのボンネビルで行われる世界一速いという車の世界も、もはや車というにはあまりに異次元の様相を呈していて、横向きのロケットというにふさわしい。
速さは重力から開放されたとたん、生身の人間にとって速いという感触から脱することを意味しているのかも知れない。宇宙では、超音速くらいではナメクジよりも遅い歩みにしか見えないということだろうか。
  
 

11PM



11PMという夜の11時過ぎのお色気系の番組であったため、子供達は先に寝かされた後、親父たちが見る番組という位置づけだった。
シュビデュバ♪シュビデュバ♪イーサバダバ♪みたいな独特のオープニング曲で始まる11PMは月曜から金曜までのウィークデーの夜、東京と大阪のスタジオから交互に放送され、東京は大橋巨泉、大阪は藤本義一等の司会で、夜のワイドショー的な番組だった。
CMの前にカバーガールと呼ばれる水着姿のお姉さんが登場し、その中には若き日の由美かおるなども居たように記憶している。それだけでも、当時の少年達には刺激的だったのである。
金曜日は巨泉と朝丘雪路のコンビで、イレブンダービーという視聴者参加型の競馬ゲームのようなものもあった。メインテーマのお色気系のほか、ゴルフ、マージャン、釣りと、ほとんど巨泉の趣味の世界の番組作りであったように、今、思えば思えるのだが、ポールモーリアのオリーブの首飾りをBGMに性風俗をレポートするもの、矢追ディレクターの専門UFO取材など男心をくすぐるコンテンツに溢れていた。
女の裸を見る機会の少ない当時の少年たちにとって、寝たふりをして隙間から覗いている、ちょっと大人の番組だったのである。
覗き見ていた少年が大人になった後もずいぶん長生きし、1990年の最終回にいたるまで24年間というから相当の長寿番組で、昔の映像を見ると1986年のカバーガールには杉本彩も登場していた。
  
 

2011年5月5日木曜日

疾風




中島飛行機が生んだ日本戦闘機の最高峰と言える。コンパクトにまとめた2000馬力の誉エンジンは当時の質的に大幅低下した燃料では十分な性能が引き出せたとは言いがたいが、日本が勝利していたら、エアショーではP51の代わりにこの疾風が舞っていたかも知れない。
小山技師らしい主翼平面形は前縁が直線で設計は隼の血統を受け継いでいることを示しているが97戦や隼もつ軽戦の虚弱なところも、飛燕のように液冷エンジンのデリケートさもなく、しっかりとした骨格でバランスの取れた美しいシルエットは当時においても大東亜決戦号と期待されただけのことはあり非の打ち所がない。
FRANKの愛称が与えられ、連合軍からの評価も日本戦闘機中もっとも高く、140オクタンの燃料を使った戦後のテスト飛行では689km/h(@6100m)の最高速度を記録するなど、太平洋戦争に投入された2000馬力級の空冷戦闘機中では世界一優秀な戦闘機であったろうと思われる。
海軍が太平洋戦争全期間を通じてゼロ戦とその改良型で戦わねばならなかったのと比べると陸軍の戦闘機は年毎に進化していた。アメリカのチノでフライアブルな疾風が復元され、日本でデモフライトをした後、返還されたが、それっきり飛ぶことはなかった。




小川恵子




以前、ビニール本のアイドルを書いたけれど、小川恵子の名前以外にも薬師丸ひろみだったり、みすずという名前でも出ていたんですねえ。
この頃のことは淡い思い出の中にあり資料はないものと思っていたのですがこのサイトにもの凄く詳細に書かれており敬服してしまいました。しかも当時、制作に携わった方の執筆ということで歴史資料としても網羅され、その完成された内容には思わず食い入ってしまいました。エロネタの豊富さでは脱帽。青春プレイバックありがとうございますという感じです。
当時お世話になった一消費者としては彼女はやはり、当時のビニ本界の中でも異色でした。
いったい幾つなんだこのおばさんは?という似合わないセーラー服を着せられたモデルさんの多い中で彼女は制服姿も違和感なく、ひときわ輝いておりました。可愛い、美しい、まさに女神だと芳賀書店などに買いに行ったものです。しかし彼女の活躍した期間は短く彗星のように消えて行った気がします。みすずちゃんはいまどうしているのでしょう。美少女が軒並み本番で出ている今とはまったく異なる性表現の制約された時代でした。小川恵子が何者だったのか、昭和ポルノ史をもう少しよく読んで勉強させてもらおうと思います。透けた陰毛に一喜一憂したあの頃がなつかしい。




ボンカレー




由美かおるのアース渦巻も懐かしいのだが、1968年に発売された、この松山容子のパッケージのボンカレーも懐かしい。
NASAのアポロ計画など、旧ソ連との間で激化した宇宙開発からのスピンアウト商品はテフロンのフライパンなど数々あるが、宇宙食として開発されていたレトルト食品は、当時の庶民生活のなかでは近未来的な食品として注目が集まった時代だった。
その中で登場した大塚のボンカレー、お湯で温めるだけの手軽さでカレーがインスタントラーメンに近いインスタント食品に位置づけられていった。
このパッケージを懐かしいと書いたのだが、発売当初からのパッケージは東日本では製造されなくなったものの、西日本では、その後も製造され続けていたようで、特に沖縄ではずっと売られていた。
否、今日でも売られていて、すでに昭和レトロを感じさせる本土へのお土産品としての価値を持つに至り、沖縄のまちやぐぁと呼ばれる裏通りの日用雑貨を扱う個人商店よりも観光客でにぎわう大通りのみやげ物店の店頭に並んでいたりする。
中のビニールパックは当初透明だったものが現在、アルミパックにはなってはいるものの、内容的には登場した時代からほとんど変わっていない長寿のヒット商品と言えるのだろう。


2011年5月4日水曜日

平凡パンチ




平凡パンチという雑誌も昭和を代表する雑誌だったと思う。
まだ日本の社会が若かったころ、女性アイドルの写真を多用してSEX対象としての女のこと、車のことなど、バイクのこと、男性諸君の気になる話題を取り上げては、昭和の時代を描写し、商品への購買意欲を促進していた部分があったように思う。
アグネス・ラム以来、グラビア・アイドルを表紙と折込ページの目玉に据え、露出度の大きなアイドルの水着姿が乱舞していた。
男達の興味がまだ萌えに行かず、実体のある生身の女を対象とし、どうやって彼女たちの興味をひき、デートに持ち込みエッチするかという一貫した線上に並んだテーマで紙面づくりがなされていたように思っている。
思っているのは、単にボクの紙への関わり方であっただけなのかも知れないのだが、多分、実際もそうであろうことは、世の男性の性的リビドーが生身の女で満足できなくなった時点において廃刊になっていることからも証明されているような気がする。
秘めた部分へのギリギリのアプローチが欲望を高めていたとすれば、ネットもあり、対象とする女性の秘めたる部分も公開になってしまった平成の時代においては、その存在意義を失ったとしてもいたし方あるまい。
平成の今は、ギリギリ情報からあくなき想像力を発揮する時代ではなく、あまりにあからさまに見せられてしまった現実から幻想に逃避する方向にベクトルが向いているのかも知れない。
 
 


2011年5月3日火曜日

由美かおる




昭和レトロと言うと、この由美かおるのアース渦巻に代表されるホーロー看板はかならずと言って良いほど登場する。
有名なホーロー看板にはコンちゃんのオロナミンCやお水のハイアースなどもあるのだが、やっぱプレミアムのお色気が漂う由美かおるがダントツ人気だし、懐かしいあの時代を感じさせる。
しかしながら昭和史に残るこの由美かおるという人、時代は変わり平成の世になってもその肉体で男心をくずぐっているから、ほとんど魔物に近い。
11PMのカバーガールで登場していたかと思ったら、映画”同棲時代”でヌードになったり、平成の世になっても水戸黄門では入浴シーンを披露したりと、老いてますます盛ん!?二十歳を過ぎたら賞味期限切れのグラビア・アイドルを尻目に、おそろしく長寿のセックスシンボルをキープしている。
さすがに水戸黄門も譲ったみたいですが、すでに実在する人間というよりは、神格化されたキャラクターではないかと思うのである。


メッサーシュミット




メッサーシュミットと言えば、第二次世界大戦中に4万機も生産され活躍した戦闘機メッサーシュミットBf109を思い出す飛行機ファンは多いはずだ。
しかし、敗戦国のご多分に漏れず、大戦中、実用のジェット戦闘機まで開発した優れた航空機工業も平和が訪れると解体され、戦闘機の設計者メッサーシュミットも航空機設計で生計を立てるわけがゆかなくなったのだろう。
戦後の一時期、こうした三輪バイクを作ったりしている。
日本の旧中島のラビットスクーターしかり、BMWのイセッタしかり、そしてこのメッサーシュミットしかり、航空機屋が設計するものは、どうしても空力に気を使ったものが出来上がる。
片側ヒンジで横に開く大型の密閉式フードはまさに航空機のキャノピーと呼ぶにふさわしいデザインである。
左右に2輪ある前輪、そして1つの後輪を動力で駆動する3輪形式で、このレイアウトはBf109戦闘機の尾輪式の接地点とジオメトリー的には共通といえるだろうか。通常の3輪車と言えば前が1輪、後ろが2輪のレイアウトが多く、地上を走行する車両にはあまり見ない3輪形式だが、デフが不要といった構造簡略化のメリットがあろうかと思う。
戦闘機メッサーシュミットほど量産されることもなく、今では愛好家の所有するマニア向けのアイテムになっているようだ。


小林ひとみ



昭和の時代に青春を過ごした人であればキャンディーズは知らない人は少ないと思うが、小林ひとみはどうであろうか。
少なくともその位置づけからして大々的に国民的アイドルと言うのには、正直はばかられるものがあるが、実際には夜な夜なお世話になった男性諸氏は多いと思うのである。
80年台のAV時代、それはオーディオ・ビデオではなく、明らかにアダルト・ビデオの方が主流だったのだ。それ以前だったら、動くエッチ・シーンというのは、18禁の映画館とかストリップでしかお目にかかれないレアものだった。
それが、家庭用ビデオデッキの普及により、レンタルビデオ店が登場。女の動く裸というのはビデオを借りてきて見る時代になったのだった。技術的進歩は青年の欲望処理を変え、オジサンの消費行動を変えるものなのだ。
その中でも、この小林ひとみのたわわな乳房にあどけないベビーフェイスという、アンバランスな魅力は当時、群を抜いていた。昔は、スレンダーだと思っていたが今、見ると彼女はふくよかでやはり昭和を代表するAVアイドルなのだ。
インターネットの今日とは異なり、ビデ倫自主規制だったか肝心なところにはボカシが入っていた当時だから、実際に本番しているのかどうかといった話題で盛り上がれたのどかな時代でもあった。
どっちであれ彼女の肢体は多くの男性を元気にしていたことだけは昭和の記憶として、今後も残って行くのだろう。なんと11PMにも登場していた。

スーちゃんとキャンディーズ





人気絶頂のときに引退する。それはビジネスとして興行的には許されないことかも知れない。
まだまだ稼げる商品価値のあるうちに事務所がみすみす金づるを手放すようなことはしないものだ。普通は!
ところが本人たちの希望で、このキャンディーズは人気絶頂のときに、普通の女の子に戻りたいと、さよならコンサートをしてグループとしては解散してしまったのだから普通じゃない!
いまさら普通の女の子に戻りたいなら、最初から普通の女の子でいろよ、という考え方もあるけれど、一度、桧舞台に立ったからこそ失った普通の女の子の部分も取り戻したい、そう願う気持ちもオジサンとしては分らなくはない。
逆説的ではあるが、そんな普通なことを考える普通の女の子たちだったからこそ、老若男女を問わず国民的アイドルとしてキャンディーズは昭和の一時代、一瞬の流れ星のようにスターダムを駆け抜けていったのだろう。
当時、歌手としてだけでなく、ドリフのコントや体操などでも活躍していたのを覚えている。
そして、そのメンバーの一人、スーちゃんが先日、乳がんで亡くなった。
彼女はキャンディーズを辞めてから、いったん普通の女の子になるものの、心機一転、女優業で活躍、NHKの人気連続ドラマ”ちゅらさん”においても国仲涼子演じる古波蔵恵里の母親役も演じた。
彼女にとっては、アイドルから役者となり、病との闘いという普通ではない境遇の中で、普通を演じることで役者への道を大成させていったのかも知れない。
普通を求めながら、結局、普通ではない姿、それが芸能界におけるキャンディーズ・イズムだったのであろう。


2011年4月29日金曜日

二式戦闘機”鍾馗”






中島の戦闘機では、有名なのは隼だろう。海軍のゼロ戦とともに緒戦において活躍したし、加藤隼戦闘隊など伝説ともなっているからだろう。
しかし、この隼、陸上戦闘機であるにも関わらず、ゼロ戦よりも翼面荷重の低い軽戦である。
しかも主翼は3本桁構造を用いているため、主翼に大口径の武装は装備できず、胴体に装着した7.7ミリや13ミリでは、防弾の厚い米爆撃機相手では蚊がさした程度だったと思われる。
それに対して、二式戦闘機は当時の日本の戦闘機としては思い切って翼面積を切り詰め、速度と上昇力に主眼をおいたインターセプターだった。
爆撃機相手に戦えるのは、隼ではなく、この鍾馗のような機体であっただろう。
要は、陸軍では97戦、海軍では96艦戦で得た成功体験が、次世代の戦闘機に対する判断を鈍らせてしまったような気がするのである。
巴戦で強い戦闘機に固執しすぎた結果が低翼面荷重偏重になり、この鍾馗に対する評価を厳しいものにしたのではないだろうか。だが、ちょっと日本機らしくないこの小さな主翼と大出力のエンジンの組み合わせこそ、設計思想としてはクリアで有名な”隼”よりも名機の素質があったと言えるだろう。


大場久美子



歌はどうしようもなかったような記憶しかないが、九重由美子をついで2代目コメットさんを襲名したり、整った顔立ちで国民的アイドルだった。
個人的には、オリンパスOM-10というカメラのコマーシャルに出ていた彼女が印象的だった。
”好きだというかわりにシャッターを押した”
カメラにはまだピント合わせも絞りもあった時代、被写体にフォーカスを合わせシャッターを押すという行為の中にそのくらいの気持ちを入れる要素のあった時代だ。
NHKでも安心して使える大衆アイドルでけしてセクシー系路線ではないのだが、バストもそれなりにあって当時、ちょっと気になるアイドルであった。
最近はテレビでも姿を見る機会も少なくどうしているのかと思っていたが、つい先日、10歳年下の彼氏と再婚というニュースが入ってきた。
お相手は、ファンの一人であった普通のサラリーマンだそうである。
このころのアイドルは、実生活ではそれなりに堅実な方が多いのではないだろうか。

山口百恵


昭和というのは山口百恵が居た時代なのだと思う。
終戦直後では美空ひばりだったのだろうが、戦後生まれの世代において年齢を超えて歌が共通の話題になれた一時期を牽引した大物だった。
としごろでデビューした中3トリオの当時から、きわどい歌詞を堂々と歌う彼女は他のライバルたちとは次元が違った。
その瞳はどこか新人の頃から大人びていて、遠くを見つめていた。
キャピキャピしたアイドルとは、どこか違っていて、歌っても映画に出ても、さらに文章を書いても自分自身の世界をもっていることが感じられた。
こうした世界観は阿木陽子の詩の世界と共鳴しながら彼女を大人の歌手にそして女にしたてあげたと言えるだろうか。
そして、人気絶頂にありながら、映画に共演した三浦友和との結婚により、表舞台からはキチンと引退して、家庭に入る。
キャンディーズのようにそれぞれの世界で芸能界に再登場もしない。引退してからは彼女の姿を見ることは息子の運動会を見に来る母親の姿くらいで、芸能界には、縁遠い生活のようだ。
芸能人に限らず、引退したら、のこのこ以前の世界に顔を出さないほうが、潔い。
人生の美学は引き際にあるといえるだろう。
華やかな世界をきっちり引退したことで山口百恵は鮮やかな記憶として日本国民の中に行き続けているともいえるのではないだろうか。

 

パチンコ台





昭和の時代、パチンコ台は実にシンプルだった。
はじくのも手の力とバネ次第、玉の流れを左右する釘も、まったくアナログで、入った時に玉の出る仕掛けもすべて重力だけで稼動していた。
その昔、少年は新装開店で廃棄になった台を家に持ちかえっては釘をいじったりしながらチーン、じゃらじゃらと夜な夜な遊んでいたら、隣のおじさんはパチンコ屋が開店したかと不思議がってやってきた。
電気を使わないパチンコは機械的な要素が多く、特に中心部にあるオレンジ色の花びら、いわゆるチューリップという仕掛けは秀逸だった一度玉が入ると開き、花びらを開かせ入りやすくするというスグレもので、くるくる回る風車とともに動的要素の少ない台に彩りを添えていた。
小さい時に研究していたせいか、大人になって解禁される年頃にはパチンコというものに興味がなくなってしまったのは、今、思うと自分にとっては単に機械的なおもちゃだったということなのだろうか。