2011年5月30日月曜日

山本晋也




子供のころ盗み見して、ときめいていた11PMよりも、ずいぶん大人になってからだったがトゥナイトという深夜帯の番組があった。
11PMの路線をもっと夜の大人向けにしたようなものだったと記憶しているが、このとき歌舞伎町界隈などの性風俗を中心にレポートして注目を集めていたのがこの人。山本晋也監督であった。
監督と呼ばれるとおり、もとは映画監督なのだが、日活ロマンポルノなど、成人向け映画を得意としていた彼らしく、性風俗のお店に行き職場の風俗嬢相手に取材したり、ラヴホテルに突撃、利用者カップルに直接インタビューする等の設定は当時TVの企画としては大胆で良く覚えている。
ソープ嬢に、「あなたのお仕事は?」と問いかける彼に、「厚生省認可の福祉事業です」とあっけらかんと答えを返す彼女たち、こういう時代なのだと感心する山本晋也監督。
働く目的も、ブランド品を買うため、もっとおしゃれを楽しむため・・・
そこには、かつての病気の親を抱え進学も諦め、田舎を離れて働く悲哀に満ちたソープ嬢の姿は微塵もなかった。
時々の社会の断面を切り取り、大衆に再確認させることが映画監督の重要な務めの1つであるとするならば、こうしたコメントから社会を映し出す彼の手法もまた、映画でこそないが、監督のお仕事に違いなかった。
人間の性ほど要望、趣向が多様で、もともと規範が不明確、正常とか異常とかの判別のつきにくい分野は社会に存在しない。こうした問題に直面したとき、男女のカラミを撮ってきた山本監督の柔軟な感性はきらめいていた。
「ほとんと、ビョーキ」という、当時、流行語にもなった言葉は、人間の性をテーマにしてきた監督だからこそ、自然に吐けたフレーズであり、プライベートな性は他人から見たらビョーキであっても、それもまた良しとする人間味のある山本哲学の真髄ではないか。そんな風に思える。
あまり映画を撮らない映画監督が時折、社会を鋭く斬ることがあるが、この人もコメンテーターとして今でも、ひっぱりだこのようだ。
風貌も性格も今で言うチョイワル親父風でもあるが、もともとC調な性格というよりも、裸の付き合いによる豊かな人間経験が、彼独特の鋭さと優しさを生んだのではないだろうか。とぼけた顔はしているが、切れ者だと私は思う。
NHKの寅さんシリーズの解説が出来るようなポルノ監督は、彼しかいまい。

 



2011年5月28日土曜日

武田久美子と貝殻水着

 
昭和の時代、写真は銀塩写真、白黒から総天然色へとカラー写真に進化したがカメラは、まだデジタルではなかった。
ピントも露出も手動が普通で、高価なカメラを持って限られたフィルム枚数の中で傑作を撮るには技術も気合いも要求された。したがって写真はプロが撮るものとの意識が強く、当時は写真家と呼ばれる撮影専門の職人さえいる時代であった。
逆に世に出る写真の枚数が圧倒的に少なかったこのデジタルフォト以前の時代にはロバート・キャパや渡部陽一ではないが、行くだけでも大変な戦場で危険を犯して撮影しなくても一枚の写真によって有名になるということも、しばしばであった。
麻田奈美が林檎ヌードで一躍、全国で有名にもなれば、武田久美子はこのシェルビキニで有名にもなれたのである。
このホタテガイで作った貝殻水着。ロケ先のグアムで食事中に武田本人が思いついたという、ちょっと眉唾っぽい逸話も残っている。
麻田の林檎ほどオリジナリティを感じず、ショッキングに感じなかったのは、ヌードダンサーの極小ステージ衣装として貝殻はすでに刷り込まれていた記憶だったからかも知れません。
武田久美子といえば東大生のアイドルだったりもしたが、日ごろストリップには行かないであろう彼らには貝殻ビキニは新鮮で十分ショッキングだったのかも知れませんね。
正直なところ、ホタテガイは扁平に過ぎ、蝶つがいの部分が幅広く張り出し、形状的には、あまり女性の陰部を隠すのにはエロティックな素材ではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか。もしかすると貝の中身を隠すというジョークだったのかも知れませんね。
そういえば市販されている貝殻水着でもボトムの貝は上下さかさまでございます。
  
 

模型屋



昭和の時代。地方の都市でも街に行けば模型屋というものが1軒や2軒はあった。
そして店の奥では仏頂面の親父が店番をしていたりするものだった。
そこにはプラモデルから、ラジコン、塗料、科学教材、バルサや竹ひごといった素材までが小さな店内に所狭しと置かれ、棚に詰まれたプラモデルの箱を見上げたり、床にしゃがみこんで部品を手にとったりしながら少年たちの目は輝いていたものだった。
きょうびの子供たちがプラモデルを作る姿は、ほとんど見かけない。少年の遊びとしてのプラモ作りはゲームやパソコンに押され、プラモデルは昔を懐かしむ大人のものになっているように思える。
こうして愛好家が減って生産数が少なくなったことで、ますますマニア向けに進化したことで高価になった。
今では1/72の航空機でさえ千円単位だが、昭和40年代はレベルの飛行機でも¥100のワンコインで買えたのだ。
普通は百円玉を握り締めて、こうした買い物をしてくるのだが、そのころプラモデルの田宮模型は何をしていたかというと戦車のトップメーカーだった。ような気がする。
どうしても我々の世代には、国産プラモで飛行機はハセガワ、戦車はタミヤという色分けがあるのは、あの頃の記憶によるのだろう。
そして戦車と言えば、なんといってもドイツである。リモコンのタイガーⅠ型は高嶺の花であったが、持っていると戦争ごっこのヒーローであった。
 
 

2011年5月27日金曜日

林檎ヌード



最初に、その大型ポスターを目にしたのは、確か岡田屋MORESであっただろうか。
正面を向き、股間に赤いリンゴを持って立ち尽くす麻田奈美の等身大ほどの大きなポスターは、当時、衝撃的だった。
平凡パンチなどの男性誌に特集されたことでオナペットとしても有名になり、このポスターは独身男性の部屋に掲げられることとなる。
林檎ヌードはオナペットを超えて、一枚の写真としても、あの時代を反映したものといえるのではないだろうか。
ヌードでありながら、この青柳陽一氏の撮られたという写真には、いやらしさはなく股間に林檎という独特の演出にも関わらず自然体の少女が投影されていた。
おそらくビニ本モデルがやっても何も発しなかったであろう鮮烈なオーラに満ちていたのは、Dカップと言われる当時、若く豊満ではじけそうな彼女の肉体に性的欲望の対象としての自覚はなく、肥満とのギリギリの線で完熟林檎直前であったからであろうと思える。
また、日本では陰毛の映った写真の公開が許されない時代であったことも、こうした歴史的所産を生んだ社会的背景ともいえるだろう。
それまで股間を隠すものと言えば、イチジクの葉というのが世界の常識であったし、それは人類の創生に近い時代からの歴史的に刷り込まれたもので、だれもそれをリンゴで置き換えようとはしてこなかったように思う。
まさにアップルの衝撃であった。

2011年5月22日日曜日

ラブテスター



自分で持っていたわけではなかったが、任天堂のラブテスターという商品があった。
ネーミングも形もそのまんま電気屋さんの使うテスターのようなシロモノ。
本体が片手に収まるアナログメーターで、セコニックの露出計にも似ている。
電気テスターでいうところのプラスの赤線とマイナスの黒線の先には接触棒の替わりに、それぞれ金属級がつけられていて使用法は簡単。
愛情度をチェックしたいアベックがそれぞれ片方の手でこの金属球を握り、空いたもう片方の手で握手をすれば、針が動いて愛情度をパーセンテージで表示されるというもの。
特にスイッチ以外に細かな設定などもなく、いたってシンプルな機器は、嘘発見器のような実用というよりもパーティグッズといったジャンルではないのだろうか。
機械内部でやっていることも、単にお互いの体を通した場合の電気抵抗値を計測しているだけだと思われるのだが、好きな彼女で汗ばんでいたりすれば抵抗値が下がって愛情度が上がったりもするのだろう。嫌いで冷や汗の場合と区別がつくのか、当時の私には試す機会はなかった。
最近では、ボディタッチが見直されたのか、こんなにんげんがっきも登場してる。 
 
 

早見優



今もテレビに出ている優ちゃんだが、最初に見たのは歌手デビュー前にでていたペンタックスMGのこのコマーシャルだったように思う。
ユーミンの”あの日にかえりたい”をバックに、ライバルに負けた悔しさか競泳水着で放心する優ちゃん。傍らからタオルをかけられるシーンをボーイフレンドが撮影しているという設定だ。
ライバルに負けたフラッシュバックのレースシーンの映像が被り、よくある青春の一コマを感じさせる。
コマーシャルとしては、つくりこんだこうした演出にも関わらず、出ていた早見優は普通の高校生のようで彼女の初々しい姿に惹かれたものである。
その後、歌手デビューを果たし、このコークのCMをはじめ、彼女はたちまちスリムで水着のよく似合う人気アイドルになっていった。
グアムやハワイで育ったという生活環境からか、本人自身は胸の小さなことに体形的な劣等感を抱いていたようだが、まだグラビア・アイドルや巨乳アイドルというジャンルのなかった当時、日本では小さな胸のアイドルが好まれた時代だったといえるだろう。
顔はまったく日本人にも関わらず流暢な英語を話せるということで、アイドル歌手としてとともに、バイリンギャルとして良く英語の番組にも登場していた。
ペンタックスMGのCMの中では”君が大人になるころ、ボクはプロになっているかも知れない。”とのコピーメッセージが流されていたが、早見優が大人になっても彼はプロのカメラマンになれなかったのか、このCMから14年後の1996年に外資系銀行員と結婚している。
ペンタックスMGには同じユーミンのBGMでもこんなバージョンのCMもあったらしいが、当時としては、あまり見た記憶がない。 
 

 
 
 

2011年5月18日水曜日

ソープランド


その昔は赤線地帯。そして1958年に赤線が廃止になってからは、こうした射精産業の殿堂はトルコ風呂と呼ばれていたのだった。
確かに、男が女性を水商売で稼がせ貢がせるのをその昔、”トルコに売る”などと言っていたのを聴いた記憶がある。
しかし、売られる先は地中海に面する国、トルコとはまったく関係がなく、名称はスチームバスを置いて特殊浴場として認可していたことに端を発するのだろうと思う。
なにかしら法の抜け穴を作ってあったのだろう。確かに業務では使用しない蒸し風呂が置いてあった。多分、これがトルコ風呂と呼ばれる所以ではないかと、密かに思っているのだが、実際はどうなのであろうか。
そしてあるとき、風俗の王様であったトルコは突如ソープランドへ改名した。ものの本によると1984年12月19日のことだそうである。
きっかけとなったのはトルコ本国の方からのクレームらしい。もっともなことである。
おおっぴらではないにしろ、金銭の授受で成立する男女の性の営み、すなわち物を売買する以前からあった、もっとも歴史のある商売である売春と祖国の名称が日本で一意的に扱われていることについては、トルコの方々にしてみれば、様々な誤解を招き、迷惑千万なことである。
他に良い名前がないか良く考えたのだろう、ソープランドへのネーミング変更は、結果からみれば業界としても成功であったろう。赤線やトルコより、なかなかおしゃれで可愛く、秀逸に思える。
これにより社会的にも認知され携わる方々への偏見も少なくなったように感じるのはボクだけだろうか。
呼び名の変遷はあれど、性情報氾濫の今日でも童貞君の筆おろしの場として、また遊び人のための風俗の王様として存在しているようだ。色欲と貨幣経済がある限り不滅の産業。男と女は時代が変わり趣味も多様化すれど、いたすことに大きな変化はないということだろうか。
  
 

FFファミリア


なんとか食べられるようになった戦後の日本で、経済復興を支えたのは、マイカーへの強い憧れでありマイカー取得への強いモチベーションであったのではないだろうか。
クルマ、カラーテレビ、クーラーいづれもそれまでは庶民の手の届かないものが大衆化し、さらにはパーソナルになっていった。
しかしボクが子供の頃の車は今のようなFF車全盛ではなかった。
リアエンジン車もあったが、その多くはフロントにエンジンを置き、プロペラシャフトを介してリア・アクスルに動力を伝達、後輪を駆動するという、いわゆるFR車が乗用車の標準であった。
こうすることで、重量バランスを適正に調整できたし、プロペラシャフトの通るトンネルは車体の縦曲げ強度を高めるのにも役立った。
しかし、昭和の時代も進み、ファミリーカーが広く普及し出すと、国民の趣味も多様化、乗せる遊び道具も増えてコンパクトな車体にスペースユーティリティが求められる時代になり、駆動系をすべて前部に集めたことでバッゲージスペースを有効に使えるFF車がファミリーカーの主流の座を奪っていった。
このFFファミリアも、そのユーザーニーズを的確にとらえて、よく売れた車だった。デザインも2ボックスになり広く開くリアゲートは新しい時代への扉のように感じられた。
このパンフレットを見るとFFファミリアにはトランクルームをもつ3ボックスタイプのままのFFもあったようだが、当時、目にしたのは圧倒的にFF2ボックスのファミリアであった。
以降、FFが大衆車の標準になってしまうのだが、重量バランス的には頭が重く、タックインというFF車独特のステアリング特性は走り屋からは嫌われ、彼らは希少になりつつあるFR車を選んで乗る少数派へとなって行くのであった。
 
 

2011年5月17日火曜日

不二家とペコちゃん




日曜日には、家族で不二家に行って、サンデーを食べるというのが、昭和の時代の子供達にとって、ちょっとした贅沢だった。
当時は、のどが渇いたら水道の水を飲めと言われ、甘いお菓子や清涼飲料水も今のように巷に溢れていたわけではない。
チョコレートのかかったアイスクリームは、見ただけで子供心をくすぐる非日常アイテムであった。
そして、普通は前を素通りするだけの不二家の前では、このペコちゃんのポップドールが必ず立っていた。
たまの日曜日、至福の時を過ごして店を出るとき、コツンとペコちゃんの頭をこづくと、ふらふらとしばらく揺れ続け、見送ってくれる姿が印象的であった。
ペコちゃんは、女の子だが、このほかにボーイフレンドなのか兄妹なのかポコちゃんという男の子も居た。
まだファミレスのない時代、贅沢なデザートの食べられるレストランとして確固たるブランドを築いていたが、道路沿いに次々にファミレスができるような時代になると競争も激しくなり、国民生活が豊かになるにつれて、少年も成長し、不二家への憧れはだんだん薄くなっていったように思う。
昭和の時代、ケーキやミルキーで親しまれた国民的ブランドも平成に入ると賞味期限切れの事件が明るみに出るなどネガティブな部分も報道され、ブランドも傷ついた。
昔は食べて美味しく食べられれば賞味期限なんて気にしなかったよね~、と時代の変遷を想うとともに、今ものんきに揺れるペコちゃんの笑顔は、昔のまま心の中に大事にしまっておきたいワンシーンになっていったのだった。


2011年5月16日月曜日

ロマンポルノ



お茶の間に家庭用テレビが普及する以前の大衆娯楽と言えば、映画であった。
同様な観点で考えると、家庭用ビデオデッキが普及し、アダルトビデオが氾濫する以前のポルノと言ったら映画館で見るこうした成人映画だった。
女の裸を見たいというスケベ心があっても、ストリップに行くほど勇気はない。そんな一般男性にとってはストーリー性もある映画という表現手段を用いたポルノ映画は、テレビで放送できない性的欲望を満たすコンテンツとして魅力を持っていた。
以上が日活ロマンポルノの本質であり、銀幕のスターという言い方も消滅し、テレビに娯楽の王座を奪われつあった映画が生き残りをかけてとった1つの戦略であったのだろう。
消費者である男にとって見れば、あまりストーリーの重要な映画としてよりも、誰の裸が見たいかで選んでいるに過ぎなかったのだが、演じる女側にとってみればポルノ女優であっても女優であるとの自意識に変わりはなく、将来は脱がない女優になるための名前を売るワンステップとして選んでいるようなところもあったように思う。
美穂じゅんも日活ロマンポルノ出身だから、脱いでもすごいのだが、性格があっけらかんと明るすぎてポルノに期待される卑猥さや背徳性に欠ける部分があった。これが逆に大衆受けする素養として普通の女優に抜擢され、タコ社長の娘寅さんにまで出演していたから、彼女が裸が売りのポルノ女優から脱裸への女優転進コースの前例をつくってしまったともいえるのだろうか。
そしてこのロマンポルノもビデオデッキの普及に大きな役割を果たしたといわれるアダルトビデオによって需要を失い、全盛時代を終えることになる。
裸のコミュニケーションも個から個への分散型のメディアへととって替わられる宿命のようだ。

 画像を追加

2011年5月15日日曜日

ストリップ劇場


まだ家庭用ビデオデッキが普及せず、アダルトビデオなどもなかった時代、彼女の居ない童貞男にとって家族以外の動く女性の裸を見るチャンスは日常的ではなかったが、18歳を過ぎれば、ストリップ劇場で生の裸を見ることができた。
それはたいてい駅からはちょっと離れた人目につきにくい路地などに、存在していた。
地域によっては駅前商店から少し距離をおき客も車で来るために駐車場つきのところもあった。
顔の見えない入り口で入場料¥5000程度を払い、中に入ると暗がりの中のスポットライトに照らされた舞台の上で彼女たちは肌を惜しげもなくさらしていた。
ビートのきいた曲をバックに舞い、脱ぎ、肢体を露にしてゆく様を食い入るように見つめ、かぶりつきにとりついた男達は目を輝かせながら花園を覗き込んでいた。
そんな意味では生の女体を拝む最初の機会がストリップ劇場であった男性は多いのではないだろうか。
何人かの踊り子さんが順番に踊りからラストのご開帳まで順を追ってステージを繰り広げてゆくのだが、踊り子さんによっては、お客さんを舞台上に上げ、本番をする生板ショーと呼ばれるステージを行っていた。こうして当時、18歳の童貞君でも映像メディアでは見ることの出来ない本番行為を目の当たりにすることが出来たわけで、インターネットで見るより実体験に近い女を知っていたと言う見方もできるのかも知れない。
大体、踊り子さんは10名程度で順番に登場するが綺麗なお姉さんは1人、2人というのが相場で、ひいきの子が終わってしまうと、もう一周見るか、そろそろ帰るかと悩むのであった。
こうしたストリップ劇場はアダルトビデオの普及にともない、次々に閉館となっていった、観光温泉街などに残っていたものがなくなった時点で最終的に消滅したのではないかと思うが、無料ポルノが氾濫する時代であってもライヴという意義は捨てがたく守るべき希少な風俗文化なのではないだろうか。
 
 

2011年5月14日土曜日

大きいことはいいことだ



気球に乗った山本直純がCMに出ていた森永のエールチョコレート。
そのときのコピーが”大きいことは、いいことだ。”だった。50円で買えるチョコレートが、このくらい大きければ文句ないだろう、といった調子だ。
そう、戦後昭和の時代は太平洋戦争の敗戦によって短小コンプレックスのあった時代だと思う。
アメリカに負けたのも大量の物量とともに、その大きさにであった。
九七戦車とM4シャーマン戦車では、大人と子供ほどの違いがある。ゼロ戦と比べるとヘルキャットなど化け猫に近い大きさだ。
そもそも人間自体のつくりからして日本人は欧米人に比して、背は低く、鼻ぺチャで、足は短くといった特徴をネガティブに感じていた時期であり、スマートで大きいものへの無意識的な憧憬が根底にあったように思う。
サニーの”隣の車が小さく見えます”は有名なコピーであるが、そのころ正常進化の方向性とは大型化だったのだ。
それまで家庭になかったものが手に入るというだけで子供はおろか大人たちも有頂天だったころ、消費財という考え方も廃棄にかかる費用などもおよそ頭にはなく、テレビもステレオも車も大きいほど格が上で高級と思われていた時代だったのだ。
翻って平成の世では、恐竜のように大きくて鈍重なものは嫌われ、軽薄短小が好まれる時代に入っている。
そこには、工業製品においてもコンピュータの発達により、肉弾戦の物理的な戦いから、高度な情報戦へとシフトした価値観があった。
機能が同じならば小さく軽い方が、優秀。デカくて重いのは小型化への努力の怠慢であり、資源の無駄食いという烙印になっていったように思う。
レアアースなどの枯渇する希少な資源でいかに効果をあげるかが求められ、パソコンの世界でも電気の流れる距離を縮め速度を上げるには小型化が必須だったCPU、そしてメモリもHDDもいかに同じ大きさで記憶容量を増すかが勝負である。
世の中は殴り合いの喧嘩の強さではなく、いかに機能をコンパクトに凝縮するかに血道をあげる世界へとシフトしたのである。
今、技術は進化し、この進化の方向性である軽薄短小化を阻んでいるは、実は人間そのもののサイズだったりする。重たい人間は航空機や車の燃費を低下させ、太くて、でかい男の指はキーボードの小型化を阻んでいるのだ。重厚長大コンプレックスが欧米人に蔓延している・・・というのは嘘だけど、あまり短小を気にしなくても良い世の中になったかも知れない。
  
 

2011年5月12日木曜日

サインはV


昭和の時代、スポーツは根性だった。
運動解析に基づいた理想のフォーム研究だとか、合理的なトレーニングメニューだとか、バランスのとれた食事管理というよりは、ひたすら他人以上に頑張る時代だった・・・ような気がする。
日の暮れかかった運動場でウサギ飛びでグランド3週!なんてのをやらせていたら平成の時代では、許されないだろう。でも許されたのだ。否、推奨されたのだ。
このサインはVも、そのスポーツ根性ものの代表格だったはずである。
しかし他の当時のスポーツもの同様、稲妻落としなどという魔球が出てきたりで、消える魔球の巨人の星同様に科学性には乏しい内容であったように記憶している。
ジグザグに落ちてきて相手を惑わすボールの挙動、どんな原理説明だったか忘れたが、無回転の球体の後ろに出来る非対称渦列、いわゆるカルマン渦列による振動揚力による蛇行であるとの学術的解説はついてなかったはずである。
それより男性諸氏に興味があったのは、登場するメンバーだろう。
彫りの深いオリエンタルな顔立ちのジュン・サンダースこと藩文雀や、庶民派アイドル的な朝丘ユミこと岡田可愛、そして限りなく透明に近いブルーで巨乳を披露した中山まりも出ていた、実のところ彼女たちのブルマ姿の方が必見であり、 少年もそれだけ見ていたのではないだろうか、印象的なストーリーを思い出そうとするが、細かい内容などほとんど覚えていないことに改めて気づく。
当時まだ東京オリンピックで優勝したバレーボール女子選手たちは、東洋の魔女と言われた時代である。
ルックスの可愛い選手など女子バレーボール界には存在ぜず、それこそビーチバレーの浅尾美和など想像することすらできない半世紀前のことを思うと、可愛い子のブルマ姿が見られるサインはVがお茶の間で広いファン層を獲得していたことは想像に難くない。

 



アメ車



う~ん。フォード・マスタングやマーキューリー・クーガー、シヴォレー・カマロそして、このダッジ・チェレンジャーと燦然と光り輝いていたアメ車たち。
この頃のアメ車は、国産車では、とうていマネの出来ない領域にあり、圧倒的な魅力を誇っていました。
なんと言っても、この馬鹿デカさが、国力の差、余裕の象徴ですものね。
今のコンパクトで高性能なFF国産車などに比べれば、ボンネットを開ければスカスカ状態の密度の低~い車だったことは確かなんでしょうが、胴長短足、黄色い肌の日本人が、まだ敗戦の屈辱から完全に立ち直れて居ない時代であります。
カローラが1000ccより少し大きな1100ccサイズで登場してはサニーに対して100ccのゆとりをアピールすれば、すぐさまサニーは大型化し”となりの車が小さく見えま~す”と対抗するなど、短小コンプレックスを引きずっていた日本人にとって、アメ車の金髪美女のような何にも制限されない、のびやかなプロポーションは、永遠に憧れの的のように思われたのでございます。
美しい・・・・!走るだけで精一杯の国産車を日々、眺めていた我々にとって、たまに親父が買ってくる週間プレイボーイの折込を飾る、こうしたアメ車の写真を盗み見ては、ヌードとはまた別な高揚感を覚えたものなのであります。
それにひきかえ、今のアメ車は何の魅力もないですなあ。SUVのデカさなどはは今となっては愚鈍にしか見えません。
馬鹿でかいSUVなんかばっか作ってるからGMは潰れるんだ、もっと時代を読め!って感じで攻守入れ替わっているのでございますから、怖いものであります。いえいえ、震災でトヨタは生産を落とし、その間にGMがまた返り咲いているのですから、勝負はまだついたとはいえませんが、あの少年の頃に、あこがれたアメ車はもう二度と戻らないのだろうと思います。マスタングのリニューアルにもがっかりしました。ウェストのくびれがないんですもの。ズンドーな馬じゃ、種馬だって、そっぽを向きますね。
 
 

2011年5月10日火曜日

飛燕




飛燕は日本の戦闘機の中では珍しい液冷エンジンを積んだ戦闘機である。
ドボアチンから技術習得をした川崎のお家芸ともいえる液冷エンジンの良さはなんと言っても正面面積の小さいことだ。当然、面積が小さければ空気抵抗は小さく、前方視界にも優れる。飛燕という愛称も機首に行くに従って細く絞られたこの独特のスタイルが、くちばしをもつ鳥の姿を彷彿させることによるものだろう。一方、空冷の星型エンジンを積む隼などは、まったく鳥らしくはなく、名前と機体がマッチしない。ネーミングとしてはこの飛燕は秀逸といえるだろう。
このユニークな戦闘機は、その丈夫で大きなアスペクト比の主翼とのマッチングもあって優れた性能を示したが、問題はドイツのダイムラーベンツからライセンスしたDB601のエンジンの量産にあった。
結局、クランクシャフトの生産が思うに任せず、エンジンを取り付けることが出来ない機体が工場に多数並ぶことになり、やむなく液冷用の首の狭い機体に空冷星型エンジンを取る付けるという離れ業をやって誕生したのが五式戦闘機である。
普通、当初の設計から逸脱したスペックのエンジンをつけたら本来の性能を引き出せないものだが、前面面積こそ大きくなったものの、冷却循環系が不要で簡素になった分、軽量になり性能は向上し、開発した技術者の間からも、最初からこの方が良かったかも知れないという発言が聞かれたという。
格好は良かったが、慣れない液冷エンジンで悩むよりは、空冷で数をそろえたほうが戦力にはなったかも知れないということだろうか。
五式戦は機首を上下から見るとまるでオタマジャクシだ。設計者、土井さんは、事実を見据えた上でかなり強引なことを平然とやってのける人であった。 
 

堀ちえみ




あまり歌の方では記憶がないのだけれど、アイドル堀ちえみを印象づけたのは、ドラマ、スチュワーデス物語ではないだろうか。
その昔、スチュワーデス物では紀比呂子が主役を演じたアテンションプリーズというテレビドラマがあって、その焼き直し的なところもあったが、教官であった風間杜夫とのラヴロマンスや「私はのろまな亀です」といった、せりふは一時、有名になり、巷でよく真似されたものである。バックに流れる主題歌もその昔、フラッシュダンスのテーマとして使われたアイリーン・キャラの"WHAT A FEELING"が使われておりいろいろな懐かしさを感じつつ、堀ちえみの大根役者ぶりを堪能できる番組仕立てであった。
先のアテンションプリーズもこのスチュワーデス物語も撮影協力したのはJAL。
当時はナショナルフラッグキャリアとして国際線の花形であり、スチュワーデスとして目指すには最高峰であったのだから、当時は倒産するとも思いもしなかった。時代は変わるものである。
今日、更に焼きなおしバージョンが登場するとすれば、ANAの全面協力となるであろうか。
一方でこの堀ちえみ、私生活の方では、ドラマの役ほどドジではないようで先日、発表された、グラビアでは、とても5児の母とは思えない人妻の色香を披露していた。
のろまな亀では、そんなに繁殖はしないし体形も維持できないに違いない。けっこう抜け目なくやることはやっている亀さんであった。
※リンクさせていただいたアテンションプリーズの映像に出てくる飛行機も古くて興味深いので、飛行機の好きな方はご覧ください。
 
 

2011年5月6日金曜日

麻丘めぐみ






平安時代のお姫様のようなスタイルの長い黒髪、そして鼻にかかる甘い声で”わたしの彼は左きき”という風変わりな歌を歌っていた彼女。
今、見ても、ちょっとブリっこなイメージはあるのだが、当時は、まだそういう表現すらなかった。
楽屋でタバコを吸っているのがバレたことがあったが、清純派に見えて、その裏ではけっこうワルな一面もありそうな雰囲気が良かったという見方もできるかと思う。
いうなれば保育園の保母さんみたいに昼間の幼児相手の営業用スマイルと、やってらんねえよ~、ったく!と裏では酒飲んでタバコ吸っている、そんな二面性によるギャップにこそ彼女本来の魅力があった。・・・と言うのは、証拠に乏しく単に筆者の屈折した思いだけかも知れないのだが、可愛くもありながら、単なる清純派アイドルではない。そんなところに青春時代の僕は魅力を感じていたように思う。
NHKのFM放送、ゆうべのひとときを聞きながらCDラジカセでエアチェックしていた時代であった。
デビュー曲の”芽ばえ”をはじめ、”女の子なんだもん”、”森を駆ける恋人たち”、”アルプスの少女”等、多くのヒットに恵まれていたが、最近はどうしているのだろうか。
彼女の”わたしの彼は左きき”のヒットにより当時、まだ少なかった左利き商品が売れたというから日本にユニバーサルデザインを持ち込んだ最初のアイドル歌手とも言えるのだろうか。

コロナマークⅡ

 

 
コロナにマークⅡという車があった。
マークⅡというからには、コロナのバージョンアップで、その後はマークⅢ、マークⅣと改良を加えるごとに末尾の数字が増えてゆくものだと思っていたのだが、マークⅡはコロナとは別の車で、マークⅡが出ても、コロナの系譜はコロナで継続した。
さらに、マークⅡのモデルチェンジでも、マークⅢとはならずに、マークⅡの新型になるだけということが分った。
日本の車はスタイル的にも、このあたりからかなり欧米化が進むように見えるだが、ネーミングについては欧米のしきたりには素直に従わずにマークⅡという語感のちょっとしたプレミア感を狙ったものだったようだ。
今もトヨタにはマークXという車があるが、これもバージョン10という意味ではなさそうだ。
 
 

桜田淳子




ようこそ、ここへ、クッククック、私の青い鳥
花の中3トリオの一人だった桜田淳子は、やっぱし早苗だべさと、イセキ農機のCMでは訛りを披露する米どころ秋田生まれの色白美人だったが、芸能界の中では、やや線の細さも感じられる普通の女の子だったような気がする。
トリオには、歌唱力で群を抜く森昌子や、色っぽい眼差で大人びた歌詞を堂々と歌い、時代に残る歌手にまで上りつめた山口百恵がいたことで、彼女の存在はどうしても3人の中で控えめに映って行ったのではないだろうか。
次第に普通の女の子だったデビュー当時のさわやかな笑顔にも、そうした焦りが影響したのか力が入って行ったように思える。
本来、勝気な彼女にとって同期との競争心は、心身を疲弊させ、やがて統一教会への入信、さらに合同結婚式や統一教会の一連の騒動を機に彼女は一般的アイドルからは距離を隔てた存在になっていったのではないかと思われる。
グラビアで見た彼女のビキニ姿はスレンダーで、ふくよかな昭和的アイドルというよりも平成でも通用するモダンプロポーションであった。
「この花は私です、やっときれいに咲いたのです」という台詞で知られる”花物語”をはじめ、ならべてみるとヒット曲も多い。最初に書いたクッククックの”私の青い鳥”がデビュー曲ではなく、”天使も夢見る”であった。デビューしたころは帽子をトレードマークにしていたように記憶している。
その後も”天使の初恋”など天使シリーズもあったが個人的には”十七の夏””はじめての出来事”等が思い出に残っている。個人的に「特別に愛してよ~♪」と願う多感な青春時代であったからであろうが・・・

 
 

X-15




車でも飛行機でも、あまりに速いと速いとは感じなくなる瞬間がある。
もはや飛行機なのかさえ定かでなくなったX-15はそんな枠を超越している機体だったといえよう。
もうこれ以上は揚力で飛ぶよりも、人工衛星のように地球の周回軌道に乗ってしまいそうな勢いを感じるからである。
実際に記録した速度はマッハ6.7、最大到達高度は107.960kmであったというから第一宇宙速度には達しないが、すでに航空機の最高速度でも運用高度でもないことは容易に想像される。
当時は東西冷戦の時代だから、当然、開発費が軍事からの支出でまかなわれていたことは想像に難くないが、こうした実績の積み重ねの中からスペースシャトルにつながる技術も醸造されたことを考えれば、科学技術は純粋に技術であって軍事も民事もないことも理解できようか。
また最初に車でも・・・と書いたが、ソルトレークシティのボンネビルで行われる世界一速いという車の世界も、もはや車というにはあまりに異次元の様相を呈していて、横向きのロケットというにふさわしい。
速さは重力から開放されたとたん、生身の人間にとって速いという感触から脱することを意味しているのかも知れない。宇宙では、超音速くらいではナメクジよりも遅い歩みにしか見えないということだろうか。
  
 

11PM



11PMという夜の11時過ぎのお色気系の番組であったため、子供達は先に寝かされた後、親父たちが見る番組という位置づけだった。
シュビデュバ♪シュビデュバ♪イーサバダバ♪みたいな独特のオープニング曲で始まる11PMは月曜から金曜までのウィークデーの夜、東京と大阪のスタジオから交互に放送され、東京は大橋巨泉、大阪は藤本義一等の司会で、夜のワイドショー的な番組だった。
CMの前にカバーガールと呼ばれる水着姿のお姉さんが登場し、その中には若き日の由美かおるなども居たように記憶している。それだけでも、当時の少年達には刺激的だったのである。
金曜日は巨泉と朝丘雪路のコンビで、イレブンダービーという視聴者参加型の競馬ゲームのようなものもあった。メインテーマのお色気系のほか、ゴルフ、マージャン、釣りと、ほとんど巨泉の趣味の世界の番組作りであったように、今、思えば思えるのだが、ポールモーリアのオリーブの首飾りをBGMに性風俗をレポートするもの、矢追ディレクターの専門UFO取材など男心をくすぐるコンテンツに溢れていた。
女の裸を見る機会の少ない当時の少年たちにとって、寝たふりをして隙間から覗いている、ちょっと大人の番組だったのである。
覗き見ていた少年が大人になった後もずいぶん長生きし、1990年の最終回にいたるまで24年間というから相当の長寿番組で、昔の映像を見ると1986年のカバーガールには杉本彩も登場していた。
  
 

2011年5月5日木曜日

疾風




中島飛行機が生んだ日本戦闘機の最高峰と言える。コンパクトにまとめた2000馬力の誉エンジンは当時の質的に大幅低下した燃料では十分な性能が引き出せたとは言いがたいが、日本が勝利していたら、エアショーではP51の代わりにこの疾風が舞っていたかも知れない。
小山技師らしい主翼平面形は前縁が直線で設計は隼の血統を受け継いでいることを示しているが97戦や隼もつ軽戦の虚弱なところも、飛燕のように液冷エンジンのデリケートさもなく、しっかりとした骨格でバランスの取れた美しいシルエットは当時においても大東亜決戦号と期待されただけのことはあり非の打ち所がない。
FRANKの愛称が与えられ、連合軍からの評価も日本戦闘機中もっとも高く、140オクタンの燃料を使った戦後のテスト飛行では689km/h(@6100m)の最高速度を記録するなど、太平洋戦争に投入された2000馬力級の空冷戦闘機中では世界一優秀な戦闘機であったろうと思われる。
海軍が太平洋戦争全期間を通じてゼロ戦とその改良型で戦わねばならなかったのと比べると陸軍の戦闘機は年毎に進化していた。アメリカのチノでフライアブルな疾風が復元され、日本でデモフライトをした後、返還されたが、それっきり飛ぶことはなかった。




小川恵子




以前、ビニール本のアイドルを書いたけれど、小川恵子の名前以外にも薬師丸ひろみだったり、みすずという名前でも出ていたんですねえ。
この頃のことは淡い思い出の中にあり資料はないものと思っていたのですがこのサイトにもの凄く詳細に書かれており敬服してしまいました。しかも当時、制作に携わった方の執筆ということで歴史資料としても網羅され、その完成された内容には思わず食い入ってしまいました。エロネタの豊富さでは脱帽。青春プレイバックありがとうございますという感じです。
当時お世話になった一消費者としては彼女はやはり、当時のビニ本界の中でも異色でした。
いったい幾つなんだこのおばさんは?という似合わないセーラー服を着せられたモデルさんの多い中で彼女は制服姿も違和感なく、ひときわ輝いておりました。可愛い、美しい、まさに女神だと芳賀書店などに買いに行ったものです。しかし彼女の活躍した期間は短く彗星のように消えて行った気がします。みすずちゃんはいまどうしているのでしょう。美少女が軒並み本番で出ている今とはまったく異なる性表現の制約された時代でした。小川恵子が何者だったのか、昭和ポルノ史をもう少しよく読んで勉強させてもらおうと思います。透けた陰毛に一喜一憂したあの頃がなつかしい。




ボンカレー




由美かおるのアース渦巻も懐かしいのだが、1968年に発売された、この松山容子のパッケージのボンカレーも懐かしい。
NASAのアポロ計画など、旧ソ連との間で激化した宇宙開発からのスピンアウト商品はテフロンのフライパンなど数々あるが、宇宙食として開発されていたレトルト食品は、当時の庶民生活のなかでは近未来的な食品として注目が集まった時代だった。
その中で登場した大塚のボンカレー、お湯で温めるだけの手軽さでカレーがインスタントラーメンに近いインスタント食品に位置づけられていった。
このパッケージを懐かしいと書いたのだが、発売当初からのパッケージは東日本では製造されなくなったものの、西日本では、その後も製造され続けていたようで、特に沖縄ではずっと売られていた。
否、今日でも売られていて、すでに昭和レトロを感じさせる本土へのお土産品としての価値を持つに至り、沖縄のまちやぐぁと呼ばれる裏通りの日用雑貨を扱う個人商店よりも観光客でにぎわう大通りのみやげ物店の店頭に並んでいたりする。
中のビニールパックは当初透明だったものが現在、アルミパックにはなってはいるものの、内容的には登場した時代からほとんど変わっていない長寿のヒット商品と言えるのだろう。


2011年5月4日水曜日

平凡パンチ




平凡パンチという雑誌も昭和を代表する雑誌だったと思う。
まだ日本の社会が若かったころ、女性アイドルの写真を多用してSEX対象としての女のこと、車のことなど、バイクのこと、男性諸君の気になる話題を取り上げては、昭和の時代を描写し、商品への購買意欲を促進していた部分があったように思う。
アグネス・ラム以来、グラビア・アイドルを表紙と折込ページの目玉に据え、露出度の大きなアイドルの水着姿が乱舞していた。
男達の興味がまだ萌えに行かず、実体のある生身の女を対象とし、どうやって彼女たちの興味をひき、デートに持ち込みエッチするかという一貫した線上に並んだテーマで紙面づくりがなされていたように思っている。
思っているのは、単にボクの紙への関わり方であっただけなのかも知れないのだが、多分、実際もそうであろうことは、世の男性の性的リビドーが生身の女で満足できなくなった時点において廃刊になっていることからも証明されているような気がする。
秘めた部分へのギリギリのアプローチが欲望を高めていたとすれば、ネットもあり、対象とする女性の秘めたる部分も公開になってしまった平成の時代においては、その存在意義を失ったとしてもいたし方あるまい。
平成の今は、ギリギリ情報からあくなき想像力を発揮する時代ではなく、あまりにあからさまに見せられてしまった現実から幻想に逃避する方向にベクトルが向いているのかも知れない。
 
 


2011年5月3日火曜日

由美かおる




昭和レトロと言うと、この由美かおるのアース渦巻に代表されるホーロー看板はかならずと言って良いほど登場する。
有名なホーロー看板にはコンちゃんのオロナミンCやお水のハイアースなどもあるのだが、やっぱプレミアムのお色気が漂う由美かおるがダントツ人気だし、懐かしいあの時代を感じさせる。
しかしながら昭和史に残るこの由美かおるという人、時代は変わり平成の世になってもその肉体で男心をくずぐっているから、ほとんど魔物に近い。
11PMのカバーガールで登場していたかと思ったら、映画”同棲時代”でヌードになったり、平成の世になっても水戸黄門では入浴シーンを披露したりと、老いてますます盛ん!?二十歳を過ぎたら賞味期限切れのグラビア・アイドルを尻目に、おそろしく長寿のセックスシンボルをキープしている。
さすがに水戸黄門も譲ったみたいですが、すでに実在する人間というよりは、神格化されたキャラクターではないかと思うのである。


メッサーシュミット




メッサーシュミットと言えば、第二次世界大戦中に4万機も生産され活躍した戦闘機メッサーシュミットBf109を思い出す飛行機ファンは多いはずだ。
しかし、敗戦国のご多分に漏れず、大戦中、実用のジェット戦闘機まで開発した優れた航空機工業も平和が訪れると解体され、戦闘機の設計者メッサーシュミットも航空機設計で生計を立てるわけがゆかなくなったのだろう。
戦後の一時期、こうした三輪バイクを作ったりしている。
日本の旧中島のラビットスクーターしかり、BMWのイセッタしかり、そしてこのメッサーシュミットしかり、航空機屋が設計するものは、どうしても空力に気を使ったものが出来上がる。
片側ヒンジで横に開く大型の密閉式フードはまさに航空機のキャノピーと呼ぶにふさわしいデザインである。
左右に2輪ある前輪、そして1つの後輪を動力で駆動する3輪形式で、このレイアウトはBf109戦闘機の尾輪式の接地点とジオメトリー的には共通といえるだろうか。通常の3輪車と言えば前が1輪、後ろが2輪のレイアウトが多く、地上を走行する車両にはあまり見ない3輪形式だが、デフが不要といった構造簡略化のメリットがあろうかと思う。
戦闘機メッサーシュミットほど量産されることもなく、今では愛好家の所有するマニア向けのアイテムになっているようだ。


小林ひとみ



昭和の時代に青春を過ごした人であればキャンディーズは知らない人は少ないと思うが、小林ひとみはどうであろうか。
少なくともその位置づけからして大々的に国民的アイドルと言うのには、正直はばかられるものがあるが、実際には夜な夜なお世話になった男性諸氏は多いと思うのである。
80年台のAV時代、それはオーディオ・ビデオではなく、明らかにアダルト・ビデオの方が主流だったのだ。それ以前だったら、動くエッチ・シーンというのは、18禁の映画館とかストリップでしかお目にかかれないレアものだった。
それが、家庭用ビデオデッキの普及により、レンタルビデオ店が登場。女の動く裸というのはビデオを借りてきて見る時代になったのだった。技術的進歩は青年の欲望処理を変え、オジサンの消費行動を変えるものなのだ。
その中でも、この小林ひとみのたわわな乳房にあどけないベビーフェイスという、アンバランスな魅力は当時、群を抜いていた。昔は、スレンダーだと思っていたが今、見ると彼女はふくよかでやはり昭和を代表するAVアイドルなのだ。
インターネットの今日とは異なり、ビデ倫自主規制だったか肝心なところにはボカシが入っていた当時だから、実際に本番しているのかどうかといった話題で盛り上がれたのどかな時代でもあった。
どっちであれ彼女の肢体は多くの男性を元気にしていたことだけは昭和の記憶として、今後も残って行くのだろう。なんと11PMにも登場していた。

スーちゃんとキャンディーズ





人気絶頂のときに引退する。それはビジネスとして興行的には許されないことかも知れない。
まだまだ稼げる商品価値のあるうちに事務所がみすみす金づるを手放すようなことはしないものだ。普通は!
ところが本人たちの希望で、このキャンディーズは人気絶頂のときに、普通の女の子に戻りたいと、さよならコンサートをしてグループとしては解散してしまったのだから普通じゃない!
いまさら普通の女の子に戻りたいなら、最初から普通の女の子でいろよ、という考え方もあるけれど、一度、桧舞台に立ったからこそ失った普通の女の子の部分も取り戻したい、そう願う気持ちもオジサンとしては分らなくはない。
逆説的ではあるが、そんな普通なことを考える普通の女の子たちだったからこそ、老若男女を問わず国民的アイドルとしてキャンディーズは昭和の一時代、一瞬の流れ星のようにスターダムを駆け抜けていったのだろう。
当時、歌手としてだけでなく、ドリフのコントや体操などでも活躍していたのを覚えている。
そして、そのメンバーの一人、スーちゃんが先日、乳がんで亡くなった。
彼女はキャンディーズを辞めてから、いったん普通の女の子になるものの、心機一転、女優業で活躍、NHKの人気連続ドラマ”ちゅらさん”においても国仲涼子演じる古波蔵恵里の母親役も演じた。
彼女にとっては、アイドルから役者となり、病との闘いという普通ではない境遇の中で、普通を演じることで役者への道を大成させていったのかも知れない。
普通を求めながら、結局、普通ではない姿、それが芸能界におけるキャンディーズ・イズムだったのであろう。