2011年4月29日金曜日

二式戦闘機”鍾馗”






中島の戦闘機では、有名なのは隼だろう。海軍のゼロ戦とともに緒戦において活躍したし、加藤隼戦闘隊など伝説ともなっているからだろう。
しかし、この隼、陸上戦闘機であるにも関わらず、ゼロ戦よりも翼面荷重の低い軽戦である。
しかも主翼は3本桁構造を用いているため、主翼に大口径の武装は装備できず、胴体に装着した7.7ミリや13ミリでは、防弾の厚い米爆撃機相手では蚊がさした程度だったと思われる。
それに対して、二式戦闘機は当時の日本の戦闘機としては思い切って翼面積を切り詰め、速度と上昇力に主眼をおいたインターセプターだった。
爆撃機相手に戦えるのは、隼ではなく、この鍾馗のような機体であっただろう。
要は、陸軍では97戦、海軍では96艦戦で得た成功体験が、次世代の戦闘機に対する判断を鈍らせてしまったような気がするのである。
巴戦で強い戦闘機に固執しすぎた結果が低翼面荷重偏重になり、この鍾馗に対する評価を厳しいものにしたのではないだろうか。だが、ちょっと日本機らしくないこの小さな主翼と大出力のエンジンの組み合わせこそ、設計思想としてはクリアで有名な”隼”よりも名機の素質があったと言えるだろう。


大場久美子



歌はどうしようもなかったような記憶しかないが、九重由美子をついで2代目コメットさんを襲名したり、整った顔立ちで国民的アイドルだった。
個人的には、オリンパスOM-10というカメラのコマーシャルに出ていた彼女が印象的だった。
”好きだというかわりにシャッターを押した”
カメラにはまだピント合わせも絞りもあった時代、被写体にフォーカスを合わせシャッターを押すという行為の中にそのくらいの気持ちを入れる要素のあった時代だ。
NHKでも安心して使える大衆アイドルでけしてセクシー系路線ではないのだが、バストもそれなりにあって当時、ちょっと気になるアイドルであった。
最近はテレビでも姿を見る機会も少なくどうしているのかと思っていたが、つい先日、10歳年下の彼氏と再婚というニュースが入ってきた。
お相手は、ファンの一人であった普通のサラリーマンだそうである。
このころのアイドルは、実生活ではそれなりに堅実な方が多いのではないだろうか。

山口百恵


昭和というのは山口百恵が居た時代なのだと思う。
終戦直後では美空ひばりだったのだろうが、戦後生まれの世代において年齢を超えて歌が共通の話題になれた一時期を牽引した大物だった。
としごろでデビューした中3トリオの当時から、きわどい歌詞を堂々と歌う彼女は他のライバルたちとは次元が違った。
その瞳はどこか新人の頃から大人びていて、遠くを見つめていた。
キャピキャピしたアイドルとは、どこか違っていて、歌っても映画に出ても、さらに文章を書いても自分自身の世界をもっていることが感じられた。
こうした世界観は阿木陽子の詩の世界と共鳴しながら彼女を大人の歌手にそして女にしたてあげたと言えるだろうか。
そして、人気絶頂にありながら、映画に共演した三浦友和との結婚により、表舞台からはキチンと引退して、家庭に入る。
キャンディーズのようにそれぞれの世界で芸能界に再登場もしない。引退してからは彼女の姿を見ることは息子の運動会を見に来る母親の姿くらいで、芸能界には、縁遠い生活のようだ。
芸能人に限らず、引退したら、のこのこ以前の世界に顔を出さないほうが、潔い。
人生の美学は引き際にあるといえるだろう。
華やかな世界をきっちり引退したことで山口百恵は鮮やかな記憶として日本国民の中に行き続けているともいえるのではないだろうか。

 

パチンコ台





昭和の時代、パチンコ台は実にシンプルだった。
はじくのも手の力とバネ次第、玉の流れを左右する釘も、まったくアナログで、入った時に玉の出る仕掛けもすべて重力だけで稼動していた。
その昔、少年は新装開店で廃棄になった台を家に持ちかえっては釘をいじったりしながらチーン、じゃらじゃらと夜な夜な遊んでいたら、隣のおじさんはパチンコ屋が開店したかと不思議がってやってきた。
電気を使わないパチンコは機械的な要素が多く、特に中心部にあるオレンジ色の花びら、いわゆるチューリップという仕掛けは秀逸だった一度玉が入ると開き、花びらを開かせ入りやすくするというスグレもので、くるくる回る風車とともに動的要素の少ない台に彩りを添えていた。
小さい時に研究していたせいか、大人になって解禁される年頃にはパチンコというものに興味がなくなってしまったのは、今、思うと自分にとっては単に機械的なおもちゃだったということなのだろうか。
 
 

2011年4月28日木曜日

トムボーイ




まるで生き物のように振舞うバネといえばトムボーイを表現できるだろうか。
バネが伸び縮みする際に発する金属音とともに階段や坂道を下りる玩具だが、うまく動き続けるには、それなりに適当な階段の高さや幅があり、ずれてくると転げ落ちたりもした記憶がある。
一応、玩具メーカーではなくホンモノのバネ専門屋の製作だったようなのでバネ定数や長さで調節され、一般的な家屋の階段で遊ぶことを前提にした仕様になっていたと思われる。
おそらく類似品の作りにくい、きわめて特徴のある玩具ではあったろうが、他に遊びようがあまり思いつかず、時々、思い出したように出してきて、ひとしきり遊ぶと忘れ去られるの繰り返しだった。
我が家でも長らくおもちゃ箱に入っていたがその後、どこへ行ってしまったか今は見つからない。
  


大人のおもちゃ地球ゴマ




地球ゴマの商品名だったと思う。
コマのような高速回転体が容易には、その回転軸を変えない特性を利用した玩具と説明したら話はそれで終わってしまうのだが、見方を変えれば、単なるこどものおもちゃではなく、ジャイロの原理を理解するための最高の教育素材ということもできるだろう。
コマの周辺に重量を集中し軸周りの慣性モーメントを高めるとともに、ニードルになった軸受けは摩擦による回転の減衰を最小限に抑えた。
この構造により、高速回転させた地球ゴマは綱渡りを可能にし、箱に入れたまま斜めに立つこともできた。
子供のころ地球ゴマで遊びながら知ったジャイロの特性は、実社会において宇宙船から航空機の航法計器であるINSなど広く応用され、よりどころのない空間でも確かな指標を得るきわめて役立つ特性であることを知った。
これは断じて子供のおもちゃではない。だからと言って大人のおもちゃという表現にも語弊がある気がする。
 

2011年4月26日火曜日

手動ヘリコプター




このおもちゃのヘリコプターは、ほとんどオリジナルデザインが変わらず、もしかしたら今でも手に入るのではないだろうか。
昭和の時代、駄菓子屋あたりで手に入れ、幼いときに遊んだ記憶から、最近でも見た覚えがあるから、時代を超えて、ほぼ半世紀にわたりオリジナルデザインを保って存在している近代版竹とんぼの定番ではないかと思う。
原理としては、簡単。筒の中に通ったローター軸に、ねじったゴムのトルクで糸を巻きつけ、この紐の終端に付けられた尾翼部分を引くと軸上部に乗せたローターに回転が伝えられ、この揚力を発生するローター部分だけが空へと舞い上がる構造だ。
3ブレードの周囲のリングは接触時の安全やローター面変形防止を考慮するとともに重量を外周付近に集めることによる慣性モーメント増大に大きく貢献しており、平屋の家を飛び越せるくらいの飛行能力は十分に持っていたように記憶している。
今、考えても全体で実機のヘリコプターを感じさせるフォルムで、このシンプルな構造を作り上げた設計者はなかなかの技術センスを持っていたと思えるのだが、誰が発案したものなのか、残念ながらわからない。形もずっとこの形なら色の常にこの組み合わせだったように思う。

 

2011年4月24日日曜日

ギンダマ鉄砲





DSもPSPもない時代、子供達の遊びはほとんどが広場や公園を遊び場に行われた三角ベースやどろじゅんといった体を使った遊びだった。
その中でも高度な工業製品???を用いた遊びといえばこの銀球鉄砲とか2B弾くらいであったろうか。
今でこそ銀色の弾丸などと言えば写真からパチンコ玉の小さいもののような金属球を想像するであろうが、その名前の由来となった銀色の玉は、金属ではなかった。
時々割れた弾の中身を見るとボロボロと崩れる土のようなものを固めてつくったものであることを示していた。銀色の表面は染めたものだったのだ。
そのときは、誰が設計したとも、どこ製だとも考えたことはなかったが、どうやらサイトを探していたらこの会社が作っていたもので、今も復刻版が出ているらしい。
ここのサイトには歴代の商品も掲載されていて、これによれば筆者が最初に手にした銀球鉄砲はこのSAP50セキデンオートマチックだったようだ。
弾丸を球形にしたことで重力式供給による連発式を可能にした・・・というのは、まさに当時としては画期的で卓越した設計であったが、弾丸の発射は本来の銃口からではなく、引き金と遊庭部分の間にあるパイプからであることが、少年にとっても、ちょっと不満だったことを覚えている。

テレビジョンセット




アイドルを語るにもテレビがなければ始まらない。
戦争を知らない世代の昭和とはまさにテレビの時代であったかも知れないと思うほどである。
そのテレビが登場したのも昭和の時代であり、テレビは登場するやメディアの花形となったが、最初から茶の間に置かれていたわけではなく、高値の花のテレビは街頭テレビであったりお金持ちの大家さんの家とかにあったのだろう。
歴史番組に登場するような力道山のプロレスをテレビで見たような思い出はなく、うちに白黒テレビがやってきたのはずっと後のことで、はじめて見たアニメは狼少年ケンだった。
しかも画面が小さいその白黒テレビでさえ、空き巣に盗まれて行方をくらました。
拝借してきたこの写真もYOUTUBEのアイコンみたいな、まさにテレビの代表らしいブラウン管テレビ、すなわちTUBEをもつ機器であるが、テレビは昭和の時代、こんな奥行きをもつ存在感のある箱としてずっと存在していたのだ。
今ではCathode ray tubではなく、液晶になったり、有機ELになったり、薄くなると同時に、大画面になったり、さらにはその薄さの中に3D世界を作り上げるまでに進化している。


三ツ矢サイダー




少年時代、親族が集まると大人たちはビールを飲み、子供たちはこのサイダーを楽しみにしていたものだった。
日ごろ、親からはのどが渇いたら、水道の水を飲めと言われていた当時の少年たちにとって、サイダーはハレの日にだけ飲める、心ときめく飲み物だったのだ。
空になったビンや王冠すらも貴重で捨てがたい存在で集めたりしていた。だから、このビンを見ると少年時代のせつない思い出が蘇ってくるのである。
三ツ矢サイダーは今も存在するし、時代が変わっても大きくその味を変えてはいないと思うが、筆者にとってのサイダーのイメージは断じて、あのペットボトルに入った1.5リットルとかの今のサイダーではなく、水道の水を飲み、せいぜい良くても麦茶に砂糖を入れて飲むくらいのことしか許されなかった少年時代、羨望の眼差しで見つめた赤い三ツ矢のマークであったり、薄緑色をしたビンに入ったそれなのである。
今じゃ、水道の水は飲んだら危険だから、サイダーでも飲みなさい親は言いそうです。かくも変わるものなのですね。
 
 


天地真理




天地真理は、小柳ルミ子、南沙織と一緒に3人娘で呼ばれていたが、この人は他の二人が、宝塚や復帰直後の沖縄県出身といった出所がやや個性派だったのに比べると、普通の人であるとともにダントツに可愛いということで世代を超えた万人向けアイドルだったように記憶している。
平成の世の中になって考えると、その後、三者三様の人生を歩む彼女たちは一時期を三人娘として、くくられ騒がれていただけだったように思える。
あるとき長いブランクを経て、再び天地真理をブラウン管で目にしたときの姿は、日本人の好む”ふくよかさ”の度をはるかに越えていて、思い出の中にある真理ちゃんとのギャップに言葉を失ってしまった。
一方、小柳ルミ子は、私の城下町で見せた清楚なイメージとは異なり、その後、若い男子をとっかえひっかえの奔放なイメージで芸能会に居続け、もう一人の三人娘、南沙織は芸能界引退後は写真家、篠山 紀信の奥様になり平和な日々を送っていたようで、いつぞやの紅白に長いブランクを経て登場したにも関わらず彼女の昔とほとんど変わらない容姿、歌声には逆に感動を覚えた。
国民的なアイドルだった真理ちゃんは、可愛いアイドルが必ずしも可愛い奥さんになって、可愛い国民的おばあちゃんになるわけではないことをも物語っていた。
 
 

2011年4月23日土曜日

三菱 雷電




昭和のムチムチアイドルといえばこの機体が外せないだろう。
日本の軍用機には、珍しいずんぐりむっくりのセクシー系のファイターである。
どうしてこのような宮崎美子や河合奈保子のような戦闘機が出来上がったのだろうか。
戦争中の飢餓感からくる、飽食への憧れが戦闘機設計者に胴体の太い戦闘機を作らせた・・・わけではない。
実のところ雷電の、このくびれのないむっちりしたボディは、航空界でもセクシー系とは呼ばれておらず、紡錘形と呼ばれるものであった。
爆撃機用の大きな火星エンジンを包み込んだカウルを先端で絞り、その後の胴体を自然な流線型に整形してゆくと、この紡錘形が出現するのだ。
当時はこれにより空気抵抗が低減され、速度性能が向上すると考えられていた。
しかし、結果は思ったほどの抵抗軽減には至らず、前方視界不良といった弊害がクローズアップされてしまいパイロットからは不評を買った。
一方の中島系の技術者たちは、もっとスリムな女性、否、飛行機が理想と考えていたようだ。
特に一般流速よりも速いプロペラ後流のなかに太いボディをさらすべきではないと考え、極力、胴体は細らせた。それは二式戦の鍾馗と比較してみればその差は歴然である。
戦闘機には母性を求めるよりも、日本刀のごとき研ぎ澄まされたムダの無さが求められていると考えたのだろう。
いずれにせよ、スタイルをよくするキーワードは小顔。
すなわち頭自体を小さくすることが一番、効果的であり、2000馬力空冷エンジンをコンパクトにした誉を積んだ、疾風は中肉中背のプロポーションの良いナイスバディとなった。
 
 

河合奈保子




昭和のアイドルは。ふくよかな人が多い。
まだ栄養的に十分な時代ではなかった・・・わけではない。
もはや戦後ではなく、飢餓への潜在的な怖れからではないと思うが、女性には丸みが求められ、むっちり系が人気だった。
そして昭和のムチムチアイドルといえばこの人も外せない。
河合奈保子はそのふくよかなボディとともに巨乳アイドルの走りともいえるだろう。
そして、その底抜けに明るい笑顔と、ものおじしない度胸でひときわ輝きを放っていた。
ほとんどの歌詞に”胸”という台詞が織り込まれており、彼女の豊かなバストはプロモーション用としても重視されていたことがわかる。
ここに、大磯ロングビーチでビキニで歌う彼女の動画があった。芸能人水泳大会のときのものだろう。
それにしても、なんて健康的な水着姿なのだろうか。
  
 
  

宮崎美子





いまの君はピカピカにひかって~♪で始まるミノルタX7のCMでみせた宮崎美子が木影で水着に着替えるシーン。
ジーンズと一緒に脱げそうなビキニ姿の彼女は昭和の時代、健康なお色気とともに一世を風靡した。
NIKONやCANONの買えない人のためのカメラだったX7でさえ、¥59800。
当時の若者には宮崎美子とともに1つの憧れだった。
斉藤哲夫にこのCMのイメージが刷り込まれているおじさん達も多いことだろう。
  

2011年4月21日木曜日

スバル360














フェリーポルシェがビートルをつくり、一時期、世界のあちこちに生存していたカブトムシ型のくるま達。
この甲殻類の車として日本にも登場したのがスバル360であった。
作ったのは、戦争中に隼や疾風といった名戦闘機を作った中島飛行機の血を受け継いだ富士重工の航空技術者であった。
二次曲面で構成される滑らかなボディは今、見ても女性的で色っぽい。
本家VWビートルよりも、大分小ぶりであることから、てんとう虫と呼ばれ、愛されたスバル360は富士重工のつくったフォルクスワーゲン、まさに国民的大衆車であった。
 
 

パブリカ
















トヨタの大衆車パブリカの名称は公募で決められたという。
それまでの、お金もちだけの乗り物から一般の家庭にも一台というマイカーブームの火付け役になった車と言えるのではないだろうか。
800ccは今だと軽自動車の範疇に近いが、もしかしたら買えるかも知れない普通車・・・手の届くところに自動車は近づいていた。

模型飛行機と理論














昭和の時代は科学の時代であった、その意味では平成の世の中はもっと呪術的で感性の時代なのかも知れない。
太平洋戦争の敗北により翼をもがれた実機の航空機設計者たちが、模型飛行機の本に募る思いを胸に執筆していたのだ。実機のレイノルズ数に近い考え方で今よりもずっと理論的だ。
戦争中に葉巻といわれた一式陸攻の設計者、本庄季郎氏は、重心位置の後退している模型飛行機の特徴を述べ、航研機で世界記録を作った木村秀政氏はCPとACの違いを明確に述べている。
今の模型飛行機は誰もそんなこと考えていないかのようだ。


C-46











カーチスC-46コマンドは懐かしく昔はあちこちで見られた。
C-1に交代する前までは空挺部隊で使っていたような記憶がある。
翼が生えていなければサンダーバード2号のような胴体だ。なんでこんなまんまるい胴体なのかと思ったが、本来は与圧するつもりで作ったからだと何かで読んだことがある。
先進的な形状の割には昔ながらの尾輪式だったりもする。垂直尾翼からはP‐40に通じるカーチスの遺伝子を感じることができる。

T-1











国産初のジェット練習機。それまで後退角なんて、複葉機で重心を調整するためのものくらいに思っていた(?)日本人が遷音速領域に挑戦するためのツールとして積極的に使ったはじめての飛行機といえるだろうか。
ライセンス生産を行っていたF86の影響は強く感じるものの、至るところに空力センスに優れた日本人の細やかさも感じられる。一度も重大な事故を起こしていないのも優秀な機体であったことの証左といえるだろうか。
翼には後退角で生じるアウトフローを抑えるためのバウンダリーレアフェンスが取り付けられており、比較的浅い後退角もあって翼端失速傾向は顕著なものでなかっただろうと想像される。
F86と違い、お口が横に広く、一本歯が生えているのも特徴だ。
富士重工で設計を担当したのは、往年の名機、彩雲などの設計に関わり、戦後は同社のFA200エアロスバルの設計者としても知られる内藤子生氏であった。
主翼より大きな後退角のついた水平尾翼は、主翼がショックストールを起こした後も安定・操縦を確保するという氏の考えによるものだ。
 
 

海物語アグネス 



昭和のグラビアアイドル、アグネスラムが平成になって登場したのは、パチンコであった。
ビキニをまとい浜辺で可無邪気に微笑む小麦色のマーメイドにあの頃の思い出を蘇らせたのは、私だけではないだろう。
グラビアクイーンはあまた居るけれど、アグネスラムは不滅であることを知る。彼女の青のビキニ姿は当時も比較的少なかった印象がある。

マツダ クーペ360















これも可愛い、マツダクーペ。
基本的にこの時代の軽自動車はFFではなく、小さい車体に室内空間を求めるとRRになっていたようだ。2人乗りみたいだが、後ろにも小さなシートがあったように記憶している。
カブトムシでもセダンでもなくツルンとした独特のスタイルは強烈に印象に残っている。誰が設計したんだろう。

雨あがりのダウンタウン














アグネスラムはグラビアアイドルというジャンルをつくりあげた。
初代クラリオンガールであり、巨乳アイドルの走りでもあり、アジア系で親しみやすいベビーフェースと豊満な肉体をあわせ持つアンバランスは当時の少年の心をも熱くさせた。
彼女の写真集が書店に並び、ポスターは街のいたるところに貼られ、テレビCMにも引っ張りだこであったが、このレコードデビューだけは失敗だったようだ。

マツダ キャロル













今、思うとこのころの日本の軽自動車には独特の魅力がある。リアエンジンでフロントはトランクルーム。そして形態的な特徴としては後席のヘッドスペースを確保するためリアウィンドウをオーバーハングさせたクリフカットと呼ばれるデザインだった。
今の大きくなった軽自動車と比べるとオモチャのようで可愛い!

2011年4月20日水曜日

癒し系スポーツ ヨタハチ













今思うとタレパンダのような癒し系の顔つきである。
ずんぐりむっくりの胴体は太平洋戦争で局地戦闘機として活躍した三菱の雷電を思わす。
東京モーターショーに2000GTと同時に展示されていて、兄弟のようだと思った記憶がある。
これだけ独特の形をしたスポーツカーは当時、斬新だったばかりではなく、そのままの姿で今、リメイクしても売れるのではないだろうか。
丸っこいのが筋張ったホンダのS800よりグラマラスでセクシーである。

S800










ライトウェイトスポーツというか、もともとバイク屋さんのスポーツカーだけにチェーンドライブだったりもする。
ボンネットの出っ張りがS600との違い。
この膨らみは、日本車ではなかった特長で、当時、おでこにこぶのあるおじさんをエスハチと呼んでいた記憶がある、不謹慎な少年だ。
免許のない時代の車だから見るだけで乗ったことはない。

アグネス・チャン


尾崎さんがどこにいるのか分らないのと対照的にこの人はまだテレビに時々出ている。
昔は、歌手だったというような芸能人としてだろうが、日本をちょっと離れて見られる視点が重宝がられているのかも知れない。
ひなげしの花でデビューしたてのころはアイドルだった。
覚えたての日本語で歌う歌詞は新鮮で、一世を風靡したが、その後も長年日本にいる割には、相変わらず日本語がたどたどしいように感じるのは私だけだろうか。
代表曲、ひなげしの花の他にもたくさんのヒット曲があったと思うが思春期の少年の心は、やがて同じアグネスでもグラビアアイドルのアグネスラムの方に移っていったのであった。

また逢う日まで













尾崎紀世彦といえばまた逢う日まで、また逢う日までといえば尾崎紀世彦。
すなわち僕の脳裏では、”尾崎紀世彦”=”また逢う日まで”という関係が存在している。
平たく言うと一発ヒットなのだが、この題名自体がこれで芸能界からはサヨウナラという意識を持っていたようにも思えるのは皮肉だろうか。
またいつか逢えるのだろうか。

オー・モーレツ


オー・モーレツ
あの時代、日本はモーレツに突っ走っていた。
欧米に追いつけ追い越せ、高度経済成長の中でスピードアップは良いこととされ、夜中まで残業した後に仕事を家に持ち帰ってまでするモーレツ社員が大勢いた。
コマーシャルに裸を目にする機会も少なく、通り過ぎる車のモーレツなスピードに小川ローザのスカートがめくれ上がっても新鮮な色気を感じた、そんな時代だったのだ。

映画 卒業

















サイモン&ガーファンクルのサウンドトラックをバックにダスティホフマン演じるベンは、それまで優等生だった学生を卒業し、人生で大切なものを見つけて行く。
初めての女を経験するこのシーンもそれまでの学問とは異なる生身の授業の始まりであった。
社会勉強の最初の教師はロビンソン婦人のアンバンクロフトであったが教師というよりも反面教師といえるだろうか。
若き日のキャサリンロスもスクリーンで輝いていた。

南沙織


南沙織 この沖縄出身のアイドルの登場によって沖縄では公用語が英語だと勘違いすることになる。
色黒でエキゾチックな整った顔立ちで日本本土を魅了、安室奈美恵の先駆だったといえるのではないかと思う。