2011年6月29日水曜日

中山律子

 



昭和の時代、家族のスポーツだった、ボーリング。
流行っていた当時は、日曜日など2時間待ちなど当たり前という状況だった。
空いている時間帯を狙って早朝ボーリングなども流行ったこともある。
そして日曜にはボーリング番組のテレビ放映もあり、美しきチャレンジャーなる新藤恵美の主演するスポ根ものの、ドラマまであった。
そして、あの当時、女子ボウラーとして活躍していたのが中山律子だった。
彼女は須田開代子や並木恵美子らといったルックスそこそこの実力派とともに、実力と美形を兼ね備えた稀有の存在として、もてはやされ、他のボウラーがレーンでしか脚光を浴びないのに対しシャンプーのCMなどにも起用されていた。
当時は、先輩の須田などにはいじめられてだであろう美形の律子さんは、女の世界でお姉さまにいじめられるかわいそうなシンデレラという位置づけだったと思うが、最初にパーフェクトゲームを達成するなど、美人であるだけではなく、ボウリング界を牽引するスタープレーヤーだった。
今ではボーリングというとかなりマイナーなスポーツで、マイボールやマイシューズで現れて、隣のレーンでストライクにハイタッチなどする賑やかな若者には、わき目も振らず淡々とフォームのチェックなどをしながら、黙々と投げているボウラーは、ネクラという印象以外持たないかも知れないが、一時期、ボウリングは国民的スポーツとしてメジャーな位置づけだったのである。
 
 
 

2011年6月25日土曜日

刑事コロンボ


ビバリーヒルズの自宅でピーター・フォークが亡くなったそうだ。
日本人にとってピーター・フォークと言えば、すなわちロサンゼルス警察のコロンボ警部というくらい、彼を印象付けたテレビドラマが刑事コロンボであった。
そして、この番組も昭和の時代の懐かしいテレビ番組だったと言って良い。
最初のシリーズは1972年から1979年の間に、放送されていたと記録にあるから、確かに、あの甲高いテーマ曲で始まる刑事コロンボは、一時期、毎週、楽しみにしていた記憶がある。
ヨレヨレのコートを来て、葉巻を片手に、ボロ車に乗り殺人現場に登場する、ピーター・フォーク演じる刑事コロンボは、それまでの刑事のイメージとは、かなりかけ離れていた。
颯爽とスーツを着て、急ブレーキ音とともに、パトカーや覆面者で現場に駆けつける石原軍団とは異なり、風采の上がらぬ殺人事件の現場には場違いな人、それがロサンゼルス警察殺人課コロンボ警部のいでたちであった。
しかし、ひとたび捜査に入るや、彼のこうした冴えない風体は、実は鋭いツメを隠すための隠れ蓑であることを知るのだ。
視聴者は番組のしょっぱなから、あらかじめ犯行の一部始終を見せられているから、彼の推理は実に的を射た見事なものに映り、この冴えない風采の男が、ステータスもあり経済的に成功している犯人に対して質問責めにして追い込んで行く様は、まさにフェラーリも庭にプールも持たない日本の視聴者にとっては精神的なカタルシスでもあったのではないか。
ノラリクラリのコロンボの質問にも最初の頃は、余裕で対応していた犯人も、やがては追い詰められ、態度を荒げて行くという筋書きは毎回、変わることはない。
こうした画一的なストーリー展開にも関わらず、毎週、見たいと思ってしまう魅力が刑事コロンボにはあったのである。
やっつける相手は悪代官とセレブという違いこそあれ、きっと刑事コロンボはアメリカ版の水戸黄門なのではなかったのだろうか。
多くのアメリカ人はどう見ていたのか、定かでないが、小池朝雄の吹き替えも見事で、うちのカミさんがね・・・という口癖や、聞き込み捜査の帰りがけに、1つ忘れてました~と戻ってくる、犯人にとって、いらだつシチューエーションをうまく演じて当時、これをパクったコントも多かった。
また、あの独特な刑事のやぶにらみは、片目が義眼だったというピーター・フォークのキャラがぴたりとはまっていた適役といえるだろう。コロンボ警部以外には映画グレートレースに出ていたことくらいしか、私は知らない。だから彼はピーター・フォークでなくてコロンボ警部でいい。そう思う。
 



 

2011年6月11日土曜日

ベレG

 
 
いすずという会社はダンプやエルフなどのディーゼルエンジンを得意としたトラック専門のメーカーにも思えるのだが、かつて乗用車も作っていた。最終生産の乗用車であるFFジェミニなどは1987年までだからほとんど昭和の終わりごろまでは生産していた。
そして本来のトラックを作る実用的な設計哲学は、乗用車においても独特なクルマづくりを行っていた。
商売もなんかちょっと変な会社という印象で売れなかったベレルの焼き直しかというフローリアンをジウジャーロデザインの117クーペと一緒に発表し、117のセダン版みたいな位置づけだったような記憶がある。
本当に必要な車を考えたらこうなったという技術者の真摯な姿勢は高く買うのだが、117クーペに羨望のまなざしを向けても、家は家族4人だからフローリアンを買うなどという家庭はおそらくなかったはずである。
そしてベレットもまた他に似た車を探しても見当たらない独特なスタイルをしていた。
どこかずんぐりむっくりでグラマンや雷電の雰囲気をもっていた。
そして写真のベレットGTは4ドアセダンをベースに2ドア仕様のスポーツタイプに仕上げたものだと思うのだが、当時、運転免許もなかった自分にとっては、見てあこがれるだけの存在だった。
スタイルだけではなく横置きのリーフスプリングを使うなど、おそらく走りも独特だったはずなのだが運転できる年頃には、すでにベレットGTは世の中でも希少車になっていた。
このボンネットを黒に染めた塗装も当時、レースカーなどで太陽反射による防幻対策としてよく使われており、カッコ良かったのである。スカGは知ってても、ベレGは、もはやあまり知る人の少ないマニアックなクルマだと思う。
 
 

モンローのビキニ姿

 

昭和のグラビアアイドルといえば、アグネスラムが思い浮かぶかれど、海の向こうではどうなのだろう。
男性誌プレーボーイやペントハウスのグラビアを飾っている彼女たちに、はたして元祖のような存在があるのだろうか?
ふと、おもいついたのはマリリン・モンローだった。
私の知っている限られた選択肢から思いつくくらいであるから、当然、世界的にも有名な方に違いない。
でも、単純に考えても、かなりアグネスラムとは時代が違う人だ。
アグネスラムが1970年代なのに対して、1950年代から表舞台に登場され、お亡くなりになる1962年まで。今のようなメディアのない世界で短命にも関わらず名を馳せている彼女にはジェームス・ディーンのように並外れたものがあるに違いない。
そして、あちらにはグラビアアイドルという呼び名があるのかどうかも知らないが、彼女の場合、ピンナップガールと呼んだほうがふさわしいように感じる。
男の視線を意識したポーズをとった彼女のピンナップがアメリカ人の独身男性の部屋にペタペタ張られていただろうことは容易に想像がつくし、どれほど夜のお供に供されていたのかは知らないが昭和のアグネスラムに近かったのではないかと思うのである。
しかし、1950年代のアメリカは、まだかなり保守的であったのだろう、写真で残っている彼女のビキニ姿は少ない。
その数少ないピンナップを見てみると、懐かしい雰囲気を醸している。西暦しかないお国なのにどこか昭和的なのである。
顔こそ白人で、アグネスのようには日本人にすんなり取り込めないが、今から比べるとふっくらしていてずっと馴染みやすい健康的な肢体だ。
現在の、かの国のセックスシンボルと比べると、マシンで鍛え上げられたマッスルは感じられず、ずいぶんほのぼのとした女性らしい体形だ。
飽食の時代になるとスレンダーで拒食症のような偶像を求める傾向が強い。アメリカもまだどこかで飢えていた時代なのかも知れない。
 
 

2011年6月10日金曜日

アグネスラムとカルマンギア

 

アグネスラムの魅力は、ハワイ出身というエキゾチックな生い立ちはありながら、日本人にとっては白人のように抵抗感のないオリエンタルな顔立ちと、大きく丸みをもったたわわなオッパイ。
そして小さいビキニに包まれた、これまた大きく丸みを帯びたヒップにつながってゆく、くびれた曲線であったことは容易に理解される。
昭和の時代、体形であっても性格であっても、女性に求められたものは、こうした適度な丸みだったのではないだろうかと思う。
そして、もうひとつ流行において丸くなったり、直線的に角ばったりしているものにクルマのデザインがある。
戦後、ビートル、ルノー、ヒルマンといった丸い外車が入ってきて、これらに範を得た初期の国産車である、てんとう虫や310のブルーバード、観音開きのクラウンなど、みな二次曲面をもつ丸い姿をしていた。
しかし、その後ブルーバード510のスーパーソニックラインに代表されるように、丸みを帯びた原始の時代から直線的に変化したものが、よりモダンと感じる感性を我々は持っていった、あるいは植え付けられていったように思う。
それは道路が整備されつつある時代とともに世の中に求められたスピード感、高速への憧れと渾然一体のものだったのではないだろうか。
カルマンギアは、そんな意味ではまだ速く走ることを目的としない原始の丸みを魅力としたデザインであり、高速走行よりもマイルドな味付けの雰囲気を楽しむクルマだろう。
アグネスラムはクルマ選びにあたっても、自分をひきたたせるビキニ同様に自分の存在にフィットしたカルマンギアを選んだのだとすると、しなやかな曲線美をつねに意識したモデル特有のセンスのよさと言ってよいのかも知れない。このカルマンギアの全体がモッコリとしたスタイルは彼女の丸みをおびた体形とも渾然一体のものに見える。
 
 

ビクターの犬

 

あの頃、街の楽器店に行くと必ずと言ってよいほど、音楽に耳を傾ける犬のポップドールが置かれていたものだった。
昭和の頃、商店街では今のように着ぐるみが動いているのは見た記憶がないけれど、街角にはあちこちにこうしたポップドールが置かれていたような気がする。
翻って平成の世においても、たまに薬局でケロちゃんなどは見かけるものの、当時の隆盛は見られず、ポップドールの存在が営業上不可欠なのはKFCなどの一部のフランチャイズ店のみになったように見受けられる。
店頭ポップドール自体を懐かしいと感じる中で、とりわけこの犬を見ると懐かしく思えるのは、ビクターステレオの文字が示すとおり、今では、存在そのものがなくなってしまったレコード文化のキャラクターでもあったからだろう。
おそらくエジソンの発明した蓄音機以来のアナログ音楽プレーヤーで培われた伝統の重みと、その後のCDやデジタルオーディオプレーヤーの発達で失っていったものとの対比をこのビクター犬の姿に投影して見るからではないだろうか。
しかしながら、経緯を調べてみるとこのポップドールの対象は実在していた犬で、ニッパーというフォックス・テリア犬であることがわかった。さらに、これがビクターの商標になるまでの歴史は、それだけで長い文章になることも分った。
しかも、このニッパーが聞いていたのは音楽ではなく、亡き飼い主の声であった。なかなか忠犬ハチ公を思い出させる、こころ温まるストーリーである。
ず~っと音楽に耳を傾ける犬だとばかり思っていたので懐かしさと新しい発見をさせてくれた忠犬ニッパーであった。
 

 

蓮舫

 

事業仕訳でスーパーコンピュータの開発費を巡って発言した「2番じゃいけないんですか?」のフレーズが一躍有名になった民主党の蓮舫議員。
今ではすっかりショートカットで白いスーツを着こなし、容赦なくコストカットするイメージになってしまったが、その昔、この方もグラビアに登場するアイドルだったのだ。
初代アグネスラムとはずいぶんと路線が異なるが1988年度クラリオンガールとして青山学院大学在学中にデビューとあるから、在学中から芸能界入りしていた飛んでる女子大生だったのだ。
しかしながら名は態を表すというべきなのだろうか、学歴が示すとおりインテリ肌というのか、骨っぽい体つきには、ふんわりしたところがなく水着になってもあまりエロいとは感じなかった記憶がある。
やはり、こうなって泡で隠してみてもちっともエロくないのはもはや特技に近い気がする。
逆に言えば、グラビアアイドル時代は、今の議員にたどり着くまでの名を広めるためアルバイト程度と考えたほうが彼女の人生としては自然なのだろう。
昔、裸でグラビア飾ってましたよね、と追求しても、お風呂で裸になっちゃいけないんでしょうか?とやり込められてしまいそうな気がいたします。
 

2011年6月8日水曜日

脱脂粉乳

 
 
大体、ジェネレーションの似ている昭和世代の人々がジョッキを合わせ、年代のお話になると、リトマス試験紙のように使われるのが脱脂粉乳の話題だ。
その中で、ひとり、「私は最初から牛乳だったもん」とか言い出せば、「嘘つけ~!」の大合唱が始まったりもするのである。
そうなのだ、あの戦後間もない昭和30年代、米軍から支給されていたのかどうか定かでないが、小学校の学校給食の場には必ず登場し、写真のように鈍く光るアルマイトの食器に入って出てきては、児童を苦しめたものなのである。
なんと行ってもその独特のにおいが強烈で、風味などあったものではない。おまけに表面に薄膜が張っていてふーっと吹けばシワがより、飲むと口の周りに白い輪が出来た。今だったら家畜にさえ見向きもされないに違いない。
しかし、当時の日本は栄養状態も十分ではなく、戦時の飢餓を乗り越えてきた後だけに、食べ物を残すなんてトンデも・・・とばかりに、すべて飲み干すことを当時の文部省は強制していたのであろう。普段、優しい教師の教室でも残すことは許容されなかったのである。
この頃の校内での状況は、宮崎駿のアニメ映画”おもひでぽろぽろ”の中にも登場するが、やむなく児童たちは鼻をつまんで一気に飲み干すという最終手段を編み出し、日々、実践するしかなかったのである。
しかし昭和も40年代に入ると白い悪魔はどこかに消えうせ、普通の牛乳に変わった。ビンのぶつかり合うガラスの音に、ようやく塀の中から出されたような自由の風を感じたものである。
地域によっては、ビンのところとテトラパックのところがあったようで、これでもまた曖昧な記憶の中で、意見を戦わす昭和世代なのであった。
 
 

深夜型販売機

 
コンドームの自動販売機での購入経験はないのだが、こういった夜間の自動販売機でエロ本を買った記憶はあります。
そのころセミヌードがやっと、女性の陰部などはおろか陰毛の露出ですら国家警察が厳重に取り締まっていた時代であります。それはそれは消費者側におけるモチベーションも高かったのです。
こうした販売機は、18禁の成人図書であっても未成年にも買えたので、PTAに言わせれば悪書の拡散や青少年の非行につながる、街にあってはならない自動販売機だったのでございます。
昼間こうした雑誌が見えていては、やはり業者側も社会通念上まずいと思ったのでしょうか、前面に銀色のフィルムを貼って、マジックミラーのように夜間、照明が点灯するときのみ中身が見えるような自己規制をしながら生存を図っているものもありました。
こうなると昼間に銀色の販売機の場所をチェックしておいて、夜間買いに行くという寸法です。
しかし、こうした努力をして購入しても、中身はたかが知れたものでありました。
とてもモデルはティーンには見えず、セーラー服を着ていたのは何十年前なの?というオバチャン顔のシラケてしまうグラビアページだったりもしたものです。
それでも、次はもっと可愛い子かも・・・と、塀の外から背伸びして垣間見る禁断の果実、未成年にとってはわくわく体験記なのでありました。
また、こういったものが公園などに捨てられていると秘密基地に拾ってきたりして盛り上がるのが、当時の男の子の密かな遊びでもあったのでございます。
たいていはヨレヨレ。それが雨に濡れてヨレヨレなのか、それとも**でページがくっついているのかもよく分りませんでしたが・・・
 
 

 

コンドーム自販機

 
今でもあるのだろうが、昭和の時代、あまり昼間目立たないところとか、薬局の片隅にコンドームの自動販売機が設置されていた。
大体スペック的にはこの大きさで、明るい家族計画などのコピーが書かれていたのを記憶している。
このことからして望まない妊娠を避けるバースコントロールがメインの目的であったのは明らかである。
そこが、ちょっとエッチを純粋に楽しみたい、というのが表に出ていて気恥ずかしく、売買に際して人を介さない自販機が成り立っていた一つの要因でもあるのだろう。
ところが1987年に神戸で日本初のHIV患者が確認されると、コンドームはHIV感染を防ぐためという大義名分を得て、生セックスは危険ですとばかりに、医薬品同等な扱いをうけて、以前とは比較にならないほどメディアにも登場、子供も知っている社会的認知度の高い商品となった。
これ以前では、コンドーム自体がコンチャンだとかコンドーさんといった隠語、あるいはスキンだとかサックだとか呼ばれることが多く、11PMならいざ知らずNHKの番組でコンドームという言葉を聞くことすら、ほとんど無かったように記憶している。
こうして今では、性教育の場でも堂々と取り上げられ、実物による正しい付け方までが指導の対象となる時代においては、薬局薬店はおろかコンビニ、スーパーでも売られている。
が、やはり人前で買うのは、ちょっとはばかられる商品ではあるだろう。まだ自動販売機は完全に世の中から消えてはいないようだ。
もともと夜間利用の多い商品であろうから、自販機であれば人通りのない時間帯にこっそり買えるというところがミソなのだが、夜こっそり買った経験も、人目をはばかりながら買いに来ている人も、あまり見たことがない。
果たして、こういった販売機で月にどのれくらいの売り上げがあるものなのだろうか?コカコーラのように商品を補充している光景も見かけない。
今日、コンドームはネット通販が最も得意とするジャンルではないかと思うのだが、ネット通販を使わない人種用なのかも知れない。
 

デコチャリ

 
物が不足している時代にあこがれるのは、豪華な飾りつけであったのだろう。
昭和の一時期、少年の乗る自転車には二灯のヘッドランプのほかにウィンカーから光の流れるフラッシャーのテールランプまでが取り付けられ、トラック野郎のデコトラのようになっていたことがある。
電動アシストでもない人力オンリーの自転車にこうした発電負荷の大きくなるものを取り付けたら、ダイナモの負荷が増し、走行性能事態に大きな支障を及ぼしそうなものだが、当時はこれがカッコイイと思われたのだろう。周囲の少年たちがたいした意味もなくフラッシャを点灯させては悦に入っていたものであった。
  

2011年6月6日月曜日

PC9801

 

パソコンがまだ業務で使うには懐疑的だった時代。
社内にはPC8001があるにはあった。
しかし既存で動くビジネスソフトも少なく、使っていたのは他のシステムがなければ勝手に立ち上がるROM BASICだった。
せいぜい辞書ディスクと文書ディスクを交換しながら、ワープロソフトで文書をつくるのが関の山。
それも手書きに自信のない一部の人たちが愛好していたに過ぎず、達筆な諸先輩方からは手で書いた方がよっぽど速いのに!と陰口を叩かれながらである。
そんな調子だから、社内のパソコンは昼休みにゲームをしたり、BASICで図形を描いたりと遊びに使われることが多く、一部の卓越したプログラミング技術を持つ者以外、このパソコンを使って業務に結果を出している者は少なかったのである。
しかし、それまでの8bit機パソコンにかわり、1982年になって登場した実用16bit機が、このPC9801であった。
このPC9801が投入され、多くのアプリケーションソフトが漢字ROMを搭載したNECのDOSベースに開発されるようになると事態は一変する。
一部の分野において仕事においてもパソコンは不可欠な時代になったのだ。
そして、この後、NECは他のメーカーを圧倒、独占的な地位を形成しPCといえば98という一時代を作り上げてゆく。
オリジナルの無印98のあとも、9801の後にいろいろな記号がつけられバリエーションが増殖、デスクトップからラップトップさらにはノートまでキューハチはパソコンの代名詞と化してゆく。
技術系の業務においてもMS-DOSが必須科目となり、config.sysを書き換えるのにエディターを使ったり、少ないメインメモリの中にいかにプログラムを収めるかなどに苦労させられることになった。
国内ではこの98時代が長く続き、Macなどの異色で高嶺の花を横目でにらみつつも、お仕事は98で・・・がパソコン界の王道であった。
だがOSはMS-DOSからWindowsに、さらにメモリ、CPUといったハードの格段の進歩により漢字ROMのアドバンテージは消滅、国際標準と呼ばれるDOS/Vマシンの登場により、もはやNECの優位性は崩れ、どれもこれもがWindowsを載せた各メーカーのDOS/Vパソコン百花繚乱の時代を迎える。規格が統一されてしまえば、あとは流通を制したものが勝者となる。安い部品を組み合わせDellなどに押されてゆくことになった。
そして今となってはPC98なんて知らない世代も多く、知っていても98というと、パソコンよりもOSのWindows98を思い浮かべる人が多いのではないだろうか。
だが、確実に国内標準を達成し、一時代を作ったパソコンの元祖が、このPC9801ではないかと思うのである。